こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回参拝させていただいた(2024/1/1)”遠江の古の神を祀る神社”は、浜松市浜名区都田町に鎮座する『雷(いかづち)神社』です。
『雷神社』の創建は1672年(寛文12年)、御祭神は水の神といわれる「大雷大神(オオイカヅチノオオカミ)」で。御神徳は雷鳴降雨、五穀豊穣、多くの地元の皆さんの信仰を集めています。
静かな森の中に鎮座する『雷神社』の拝殿は、お参りしやすいようにと手を加えられ、また詳しい説明書きも置かれていて、現在も町の人々から崇敬されているのがよくわかる神社でした。
今の時期は落ち葉が多く神社前の道路もカサカサと木の葉が舞い、年の初めなのに、なんとなく物悲しい気持ちが湧いてきて心地よかった。いつまでも浸っていたい感じでした。
ここ都田は、北、東、南の三方を300mほどもない山の丘陵に囲まれた盆地で、浜松市の中央にある三方原台地の北側に位置します。盆地は西に開き、都田川が中央を北東から南西に流れ、やがて浜名湖に注ぎます。
現在は浜松市街地と都田地区の大手企業や大学の研究施設などの工業地帯「都田テクノポリス」は、都田テクノロードが結ばれ、さらにフルーツパークや新東名高速道路の開通により都田を訪ねる人々は年々増えています。
例えば週末に古墳時代後期(7世紀初頭)の円墳が見学できる『見徳遺跡』に近い『都田総合公園』を訪ねようと出かけても、駐車場がいっぱいで入れないことがよくあります。これこそ都田に訪れる人や住んでいらっしゃる方が非常に多い証拠でしょう。
都田の地は、1200年前、桓武天皇が都を奈良からどこかに移そうと全国で候補地を探された時に候補地にあがったほど、三方を山に囲まれた盆地という点で京都に似ているようです。
このように都田の歴史は古く、平安時代中期の「和名抄」にはすでに「京田(みやこだ)」の記述があったそうですし、浜松駅南方面の若林町の城山遺跡からは「京田」と墨で書かれた8世紀の木簡が発掘されているので、少なくとも西暦700年代には「みやこだ」の呼称はあったと考えられています。
都田は古来から、新木・横尾・谷上・中津・一色・吉影・中野・須部・川山の9地区からなっていたといいます。
中でもこちら『雷神社』が鎮座する須部には、887年伊勢神宮に勧請して創建された『須倍神社(神明宮)』が鎮座しています。こちらの『須倍神社』は、平安中期の延喜式内社に登録される引佐郡の6神社の一つで、当初内宮・外宮が別の場所にありましたが、902年に統合されて現在地に祀られています。
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雷(いかづち)神社
鎮座地:静岡県浜松市浜名区都田町4424
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[フルーツパーク駅]から徒歩13分
天竜浜名湖線[都田駅]から徒歩26分
車:東名高速道路[三方原スマートIC]から約30分
駐車場:ありません
御朱印:不明
由緒
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雷神社(いかづちじんじゃ)
鎮座地 浜松市都田町四四二四
御祭神 大雷大神
例祭日 七月十七日
由緒
創建は寛文12年(1672年)又は貞享2年(1685年)とも云われているが、昭和53年(1978年)2月拝殿新改築の折、棟札に寛文12年とあった。明治時代に都田の小神社を上・中・下と分け、寄せ宮にしてお祭りするようになり、雷神社は川山地区の大明神社に移った。
すると須部の住民が悪病にかかりひどく苦しんだので、又現在地へ戻し、須倍住民の守り神様としてお祭りしている。雷鳴降雨、五穀豊穣を祈願して崇敬される。
(境内説明書より)
創建は1672年(寛文12年)、または1685年(貞享2年)とも伝えられていると境内由緒書にはありますが、1978年(昭和53年)2月に行われた拝殿新改築の際、寛文12年とある棟札があったとのことですので、正確には創建は1672年(寛文12年)で良いのではないでしょうか。
明治時代に都田の小神社を上・中・下と分けて寄せ宮にして祀るようになり、こちらの『雷神社』は川山地区の大明神社に移ったのですが、元々の鎮座地である須部地区の住民が悪病にかかり苦しんだため、再び現在の地に戻ったとのことです。
今も変わらず須部住民の守り神として深く崇敬されていることは、一度こちらをお参りされてらお判りいただけると思います。というのも、すごくお社に手を入れて神様を大事にされている様子が伝わるからです。
御祭神
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大雷命(オオイカヅチノミコト)
大雷大神をくわしく
大雷大神はスサノオが生まれる直前の神話で、スサノオの父神であるイザナギと母神であるイザナミの物語の中で登場しています。
「イザナギが愛するイザナギは火の神であるカグツチを生んだため亡くなってしまい、黄泉の国に去ってしまいます。
イザナミを愛していたイザナギはカグツチを殺し、イザナミを追って黄泉の国を訪ねてもう一度この世に戻るようお願いするのです。
イザナミは「すでに黄泉の国の食べ物を食してしまったので帰れない。でも愛しいあなたのために黄泉の国の神に相談するので私の姿を覗き見しないでしばらく待ってください」と答えます。
待つと約束したイザナギ、あまりに話し合いが長く続き、待ち切れなくなったためついに覗き見してしまうのです。
すると、そこには恐ろしい死者の形相をしたイザナミがいたのです。その腐敗し、ウジがたかったイザナミの体には全部で八種の雷神がいました。
頭にいた雷神が大雷(オオイカヅチ)で、胸には火雷(ホノイカヅチ)、腹には黒雷(クロイカヅチ)、さらに陰(ほと)には析雷(サクイカヅチ)、左手には若雷(ワキイカヅチ)、右手には土雷(ツチイカヅチ)、左足には鳴雷(ナルイカヅチ)、右足には伏雷(フスイカヅチ)がいました。
イザナギが、変わり果てたそのイザナミの姿を見て逃げ去った際、イザナミは、約束を破ったイザナギに「よくも私に恥をかかせたな」と黄泉の国の女たちである予母都志許売(ヨモツシコメ/日本神話に登場する黄泉国の怪物)にあとを追わせました。
イザナギは体につけていたカヅラや櫛を投げつけ、時間を稼ぎながら逃げ続けます。イザナミは続いて、先ほどの体にいた「八雷神」に加え、千五百の黄泉軍にもイザナギを追わせたのです。
イザナギは十挙剣(とつかのつるぎ)をふりかざして黄泉比良坂[ヨモツヒラサカ/日本神話において生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所]の坂本まで逃げ切り、最後は桃の実をぶつけて難を逃れました。」
という神話の中で、腐敗したイザナミの頭にいた雷神が大雷(オオイカヅチ)が、こちらの雷(いかづち)神社の御祭神です。
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諸説
御祭神の大雷大神(オオイカヅチオオカミ)は、神話や伝承の中で竜蛇神として姿を現すことが多く、雨や水を掌る神としての性格がうかがわれます。ですが、大雷を含む亡くなったイザナミの体にいた「八雷神」が、実際にどのような姿や性格の神として考えられるかは定かでないそうです。
その実体についても、雷の神であるとする説と、雷そのものではなく悪霊邪気や魔物、鬼形の類であるとする説があるとのこと。
大雷の名義について、イカヅチは、イカを「厳」、ツチを「槌」と取る説や、ノヅチやミヅチといった蛇神と関連させて、ツチを蛇の意と取る説もあるが、「厳(いか)つ霊(ち)」(ツは連体助詞)の意と取るのが通説になっている。
このうち、チは、カミという比較的新しい、人態的な神霊観と捉えられる霊格に対して、より太古の非人態的な精霊観に基づいた霊格を示すとする見方がある。
そこでこのチを「血」や「乳」と同源の生命力を表す語と考えて、八雷神を伊耶那美神の血すなわち生命力から生まれたチ(精霊)の一種とする説がある。
「大」は、大山咋神―若山咋神、大年神―若年神のように「若」と対になる語で、この神名は、左手にいた若雷と対応していると考えられる。また、イカヅチを魔物と取り、神名を、成熟した魔物の意とする説もある。
御神徳
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水の神様ということで、雷鳴降雨、五穀豊穣が御神徳です。
鎮座地の都田について
都田の川山遺跡(現在のフルーツパーク)では、縄文時代晩期(約2,500年前)の磨製石斧が多数発掘されており、さらに、都田川上流に三波川帯と呼ばれる岩山から切り出された非常に堅い岩石を磨いて石斧を製作していた工房があったようで、作成途中の失敗品が多数見つかっているそうです。
この辺りは縄文時代以前は海面も高く都田川流域は湿地帯であった可能性が高く、同じようにいくつかの遺跡が見つかっている三方ヶ原の台地上や北部の丘陵地が居住に適していたのではないかといわれています。
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地名の”須部”と神社の”須倍”?
鎮座地の地名の”須部”と、須倍神社の”須倍”、なぜか「べ」の字が違います。これは、当時の住民が「神社の文字を自分たちの名前に使うのはもったいない」とのことで、字を変えて「須部」にしたとのことです。
また都田にはあまり聞いたことのない名字の方が多いのは御存じでしょうか?例えば「須倍神社」からとった「須部」という名字の方は全国で61人、内静岡県で46人、内26人は旧北区で占めています。( 同姓同名探しと名前ランキング | 姓名、名前、名字、苗字の分布と由来 より)
このように数少ない須部さんという方にかつて出会ったことがある私ですから、やはりこの地区に鎮座している『雷神社』にはお参りすべきご縁があったのではないかと考えています。
参照元:「都田の歴史と地勢」 - 絶景かなドットコム(遠州東海)
まとめ
今回参拝させていただいたのは、浜松市浜名区都田町に鎮座する『雷神社』です。創建は1672年(寛文12年)、御祭神は水の神といわれる「大雷大神」で、御神徳は雷鳴降雨、五穀豊穣、今も多くの地元の皆さんの信仰を集めていることを強く感じた神社でした。
この『雷神社』が鎮座する都田という場所は、1200年前、桓武天皇が都を奈良からどこかに移そうと全国で候補地を探された時に候補地にあがったと伝わります。また、平安時代中期の「和名抄」にはすでに「京田(みやこだ)」の記述があったとも聞く、歴史の深い場所です。
ところが、都田という場所に訪れる機会は、浜松市民でも「都田テクノロード」という道幅も広く、春には桜、秋にも秋桜が楽しめ、紅葉も美しく一年中街路樹が楽しみな道路ができるまであまりありませんでした。
「都田テクノロード」とは、都田テクノポリスの略でおよそ30年ほど前に三方原の北端に整備された大規模工業地帯と新興住宅地と浜松市街地を結ぶ道路のことです。この浜松市北部の都田町を中心とする地域が、実は伊勢神宮内宮領の御厨だったことなんて全く知りませんでした。
こうして60歳という年齢になってようやく歴史に興味を持つことができ、神社・仏閣に頻繁にお参りさせていただくようになったことで、学ぶことが多い日々を送れるのは、大きなしあわせを見つけたことに間違いないと感じています。喜びを感じながらこれからも生きていることに感謝しつつお参りさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。