こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の遠江の天白神社巡り⑪では、静岡県の中でも田んぼと茶畑が織りなす里山風景という形容がぴったりの静岡県御前崎市下朝比奈に鎮座する『天白神社』をお参りしました。(2024年11月29日)
御前崎と聞くと海と灯台、サーフィンなどから、シーサイドのリゾート地というイメージを持ってしまいがちですが、別の呼び方で「旧浜岡町」と聞けば、緑豊かな茶畑が広がる丘陵と霜よけの扇風機みたいなのがぐるぐる回っている風景が浮かぶのではないでしょうか?
今回お参りさせていただいた天白神社の鎮座地である御前崎市朝比奈の地は、現在もこんもりとした山々にお茶畑や田んぼが広がる昔ながらの里山が懐かしさを感じさせます。
朝比奈の地は、江戸時代は朝夷但馬守(あさひなたじまのかみ)の領土で660石の知行となっていたそうです。古い書物に登場する朝夷がこの御前崎市の朝比奈だとしたら、平安時代はもちろんのこと、奈良時代にはすでに人々が暮らしを営んでいた朝夷郷が存在していたことになります。
謎多き遠江の天白神社巡りと称して最近集中的にお参りしている『天白神社』は、三重県志摩地方を南限とし、名古屋、豊橋、天竜川筋の遠州地方から長野県にかけて多く分布している神社です。
そしてこの『天白信仰』は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰で、その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっているとこれまでも書いてきました。
天白信仰の対象・内容が、星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれてきた「謎の信仰」といわれています。これまで参拝させていただいたいくつかの『天白神社』は、治水・農耕の神といった色合いが強かったように感じます。
さて今回の御前崎市下朝比奈に鎮座する『天白神社』はどうなんでしょうか?
先ほど記したように御前崎市朝比奈(下朝比奈、上朝比奈村とともに)は、古代・中世の朝夷(あさひな)郷の遺称地です。
上朝比奈の西、新野(にいの)川の支流朝比奈川の下流域に位置し、牧之原台地の裾野と平地からなる地域で、現在は日本屈指の日照量を誇る御前崎市内で太陽の恩恵を最大限に取り入れ、また牧之原農業用水を利用した「茶栽培」が大規模に展開されている場所です。
小笠原与八郎長忠の家臣である曽根孫太夫長一の居城と伝わる『朝比奈城』の城跡は、今も下朝比奈に残ります。曽根孫太夫長一は高天神衆のひとりとして、武田勝頼が高天神城を攻めた際には本丸に入って守備しましたが、落城後は後に横須賀城主となる大須賀康高に仕えたとされます。
また、城主は朝夷(朝比奈)氏と伝えられる『横舟城跡 (藤ヶ谷城跡)』もここ上朝比奈にあります。本曲輪には土塁がわずかに残る一方、多くの堀切、二重の堀切、横堀など、武田式築城法の特徴があるそうです。
どうやら戦国時代に活躍した、武田信玄・勝頼、徳川家康、今川義元・氏真などとの関連もありそうな重要な土地柄だということもわかりました。しかも先日投稿した下朝比奈の『開田院』(御前崎市下朝比奈156-1)も家康ゆかりの寺社です。天白信仰との関わりはあるのでしょうか?ないのでしょうか?
天白神社⑪
鎮座地:静岡県御前崎市下朝比奈2434-2
《アクセス》
電車・バス:バス停浜岡総合運動場前/しずてつジャストラインから徒歩約11分
車:東名高速菊川ICより 約20分
相良牧之原ICより 約20分
駐車場:神社前の広場に停めさせていただきました
御朱印:不明
天白神社の由緒や御祭神


境内には由緒書きなどもなく、手水鉢や石塔に刻まれた文字も読めず、ご由緒や御祭神についての情報が全く得られていません。


こちらの天白神社のお社は階段を上がった先に鎮座しています。鳥居前に大きな桜の木が目立つ広いスぺースがあったので車を停めさせていただきました。桜の花が咲くころは「お花見」で、氏子さんとかが集まるのかもしれません。
鳥居と御神木


注連縄が掛けられている鳥居と御神木。
拝殿


拝殿前の階段の石が少し割れていたりしますが、落ち葉も除けられていて氏子さんから愛されている神社だと感じました。拝殿の中には小さな3つの祠があります。拝殿の右横にある建物は社務所でしょうか?


祠の扉も閉じていますし、何の説明書きもないため詳細はわかりませんが、多分三柱の神様が祀られているのではないでしょうか?
鎮座地 朝比奈の由来
朝比奈(朝夷)という地名は、奈良時代に書かれた奈良東大寺の東南院古文書の「刑部広浜優婆塞貢進文」770年(神護景雲四年)に見られ、御前崎市の地名として最も古い資料に掲載されているそうです。
また、平安時代中期(931~938年(承平年間))に作られた漢和辞典・百科事典である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」にも、城飼郡(きこうぐん)11郷の一つとして新野とともに「朝夷(あさひな)」の地名をみることができるとのこと。
さらに、奈良時代の平城宮から出土した多量の木簡の中に、「朝夷郷石部衣万呂五斗」と書かれたものがあり、これは石部衣万呂に五斗の年貢を賦課したものであろうとされますが、この朝夷郷はこちらの『天白神社』が鎮座する御前崎市の朝比奈か、益頭郡朝夷(現在の藤枝市)と考えられているそうなんです。
もし、この朝夷が御前崎市の朝夷であるとしたら、現在の朝比奈には平安時代はもちろんのこと、奈良時代には人々が暮らしを営んでいた朝夷郷が存在していたことになります。
朝比奈の歴史
朝比奈の歴史について、御前崎議会だより57号には「古来書によると昔「朝比奈地区の地形が「母衣(ほろ)」つまり武士が流れ矢を防いだ武具の形に似ていることから「母衣ヶ谷(ほろがや)地区」とも言われている」とあります。
また朝夷(あさいな/朝比奈)村起源説によると「朝夷」の地名は「陽のさす処」を意味しているとのこと。
朝夷という地名について、静岡県志田郡朝夷村(現在の藤枝市)、千葉県朝夷(あさい)郡(現在の千葉県鴨川市の一部、南房総市の一部)、茨城県稲敷郡朝夷村(あさひなむら/現在の千葉県稲敷市南西部)と、全国4ヶ所に同じ朝夷の地名が存在していました。
ここ御前崎市の朝夷の地は「朝夷但馬守(あさひなたじまのかみ)の領土で江戸時代660石の知行となっていた。」とあります。千葉県、茨木県、同じ静岡県の藤枝、そして御前崎の朝比奈、4つのうちどこかということで、1/4の確率ですが地元の御前崎市説を取るとしましょう。
江戸時代の下朝比奈村とは?
江戸時代の下朝比奈村は、現在の御前崎市(旧浜岡町)下朝比奈にあたります。上朝比奈村の西、新野(にいの)川の支流朝比奈川の下流域に位置し、牧之原台地の裾野と平地からなります。
上朝比奈村とともに古代・中世の朝夷(あさひな)郷の遺称地であり、「正保郷帳」では朝比奈村一村で、「寛文朱印留」に上下に分れており、横須賀藩領だったことがわかります。
「元禄郷帳」には「上下朝比奈村」とあり、「享保郷村高帳」では下朝比奈村の高一千三三七石余、旗本宮城領。「旧高旧領取調帳」によると村は四組に分れており、岩地(いわじ)組は旗本宮城領一〇九石余・閑田(かんでん)院領二五石、ほかに亀蔵(きぞう)院除地五斗余とのこと(コトバンク)
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現在の「朝比奈」は?
田んぼと茶畑の織りなす里山風景。静岡県を代表するお茶と田んぼのコントラストが美しい自然豊かな里山「朝比奈」は、新野(にいの)川の支流朝比奈川の下流域に位置します。
※新野川(にいのがわ)
[延長]10,430m
[起点]静岡県小笠郡浜岡町新野字有ヶ谷3102番地先の町道雷沢函渠(静岡県御前崎市新野字有ヶ谷3102番地先の市道雷沢函渠)
[終点]海に至る
※浜岡朝比奈川(はまおかあさひながわ)
[延長]6,200m
[起点]静岡県小笠郡浜岡町上朝比奈字唐沢951番の4地先の町道宮下橋(静岡県御前崎市上朝比奈字唐沢951番の4地先の市道宮下橋)
[終点]新野川への合流点
御前崎市は、日本屈指の日照量を誇り、太陽の恩恵を最大限に取り入れることができます。朝比奈地区では、牧之原農業用水を利用した茶栽培が大規模に展開されており、新品種「つゆひかり」の導入が積極的に進められています。
朝比奈城
静岡県には朝比奈城という名前の城が2つあります。
1つは静岡県藤枝市岡部町殿地区にあった「朝比奈城」で、今川氏、武田氏に仕えた戦国武将、朝比奈氏が築いた城。
もう1つが今回参拝した『天白神社』が鎮座する御前崎市下朝比奈の別名「御前崎朝比奈城」、「浜岡朝比奈城」、「朝比奈城山」、「南谷城」とも呼ばれた『朝比奈城』です。
下朝比奈の『朝比奈城』の築城時期は定かではありませんが、小笠原与八郎長忠の家臣である曽根孫太夫長一の居城と伝わっています。
長一は高天神衆のひとりとして、武田勝頼が高天神城を攻めた際には本丸に入って守備しましたが、落城後は後に横須賀城主となる大須賀康高に仕えたとされます。現在城址には堀切などの遺構を確認することができます。
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※小笠原氏とは?
遠江小笠原氏のはじまりは、府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高)が小笠原氏の内紛を逃れてやがて今川氏に仕え、遠江横須賀を与えられ、馬伏塚に築城したことです。
長高の子右京進春儀は1501年(文亀元年11月1日)、朝比奈泰凞(今川家の家臣・遠江国掛川城主)から、今川氏親の出陣を通告されています。
1521年(大永元年)、当時の高天神城主であった福島正成(正成の一族は代々今川氏の家臣として仕えた福島氏の一派)が今川氏親に離反した際にこれを討伐し、その功労で入れ替わりに1536年小笠原右京進春儀が高天神城主となります。(『小笠原家譜』)
小笠原与八郎長忠(ながただ)
1536年小笠原右京進春儀が高天神城主となり、その妻は今川氏親の娘とされ、その子が与八郎長忠(ながただ)です。
甲斐の武田信玄が勢力を増し家康との領土争いもするようになり、1571年(元亀 2年)信玄が遠江へ進軍してきました。この時、城主小笠原長忠は高天神城に籠城して城を死守したため、信玄は城に近づくことが出来ずに通り過ぎたことで、「武田信玄でも攻め落とすことができなかった高天神城は難攻不落の城」として全国に名を広めたのです。
その後、信玄の子勝頼が武田家を継ぎ、1574年(天正2年5月)に2万の兵で高天神城を攻略に来ました。小笠原長忠は、 2千の兵で城に立て籠りましたが、武田軍の攻撃に兵糧弾薬も尽き、 家康の援軍もなかったため、約2ヶ月の籠城戦の後開城し高天神城は武田氏のものになりました。
その後、なぜかしら?家康からのおとがめもなく、逆に与八郎は駿河の富士郡にて一万貫文を安堵されました。養徳院(菊川市河東2327)に「与八郎」の墓碑供養塔があるそうです。
遠江小笠原氏
小笠原氏(おがさわらし)は、武家・華族だった日本の氏族。甲斐源氏の出身で甲斐国小笠原に住して小笠原と称する。鎌倉時代には阿波守護、室町時代には信濃守護だった。江戸時代には小倉藩など5つの藩の藩主を世襲した譜代大名家となり、維新後には5家とも華族に列し、旧小倉藩主家は伯爵家、他4家は子爵家となった。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。家紋は三階菱。
府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、やがて今川氏に仕え、遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)となったとされます。
小笠原義頼の子供以降、江戸時代には紀州徳川家に仕え、のち紀州藩主であった徳川吉宗が将軍に就任した際、200人ほどの紀州藩士が幕臣となったといい、その中には『吉宗公御一代記』で知られる小笠原政登や小笠原胤次がいるとか。
『天白神社』の鎮座地である下朝比奈の字杉山には『朝比奈城山』が所在していますので、こちらのお城について調べておきましょう。
朝北奈城山
牧之原台地が下朝比奈字南谷に向かって張り出した尾根先端に築かれた平山城で、本曲輪の標高は85m、地元では単に城山と呼ばれています。
朝比奈城山には、本曲輪を中心に4カ所の小さな曲輪があり、尾根を切断する堀切も4カ所確認できます。北側の麓部分には土塁で囲まれた屋敷跡があり、高天神衆の一人曽根孫太夫長一の屋敷と伝えられている曽根屋敷跡が所在していることから、朝比奈の城山はその詰の城として構築されたものと考えられます。
曽根孫太夫長一は、第一次・第二次の高天神城の戦いのとき、本丸の守備についていた寄子(よりこ)と呼ばれる部将です。普段は朝比奈の自分の屋敷に住み、屋敷周辺の田畑を経営し、こうした戦いのときに、寄親である高天神城主の小笠原氏助(うじすけ)のもとに駆け付けました。 (御前崎市PDFより)
朝比奈には、他にも横舟城跡 (藤ヶ谷城跡/御前崎市上朝比奈字藤ヶ谷)が残されています。こちらの情報も参考にしてみます。
横舟城跡 (藤ヶ谷城跡)
横船城は、築城年代は明らかではありませんが、城は朝比奈川の右岸に位置し、南北に細長く伸びた標高76m、比高約30mほどの丘陵に築かれており、尾根に沿って小曲輪を配した山城です。
麓に朝夷氏の居館跡と伝えられる(藤ヶ谷屋敷)が残っているため城主は朝夷(朝比奈)氏と伝えられますが、本曲輪には土塁がわずかに残る一方、多くの堀切、二重の堀切、横堀など、武田式築城法の特徴が認められます。
朝夷氏の危急の際の詰城として築城された後、武田方の高天神城への攻防戦時に繋の城として再利用、修築されたと考えられています。
朝夷氏(あさひなうじ)とは?
遠江朝比奈氏は、朝比奈吉俊の子・朝比奈泰煕(やすひろ)が掛川城を築城し、掛川城主として今川家に仕え続けたのですが、今川氏真が領地を失うと没落してしまいます。
朝夷氏とは、父・和田義盛が北条氏打倒を企てて起こした「和田合戦」で、最もめざましく奮戦した武将で和田義盛の3男・朝夷三郎義秀を祖とする駿河国益頭郡(静岡県藤枝市)朝夷郷が発祥の駿河族とされるという説もありますが、今川義元・氏真父子を支えた朝比奈泰能や泰朝父子とは別系統とされるようです。
朝比奈俊永の系統である駿河朝比奈氏は、朝比奈信置のとき今川家から武田氏に旗幟を変え、武田の武将として活躍したそうです。伸置の子宗利は、武田氏滅亡後に徳川氏に仕え、幕臣となっています。また、五郎国俊より17代、朝比奈昌是の跡を継いだ朝比奈昌親は駿河朝比奈氏と同系で、甲斐の族として同じく幕臣となっています。
朝比奈泰煕とは?
多分『どうする家康』をご覧になっていた方なら御存じの朝比奈泰煕。今川義元が織田信長に敗れて亡くなったあと、まあいろいろあって今川の力が弱くなってしまい、1568年(永禄11年)、駿府を捨てざるを得なくなった氏真。
その氏真が逃げ込んだのが、今川配下の朝比奈泰朝が守る掛川城ですよね。ドラマの中でも泰朝は、氏真のために最後まで今川氏に忠節を尽くすのですが、翌年家康に攻められ掛川城を開城しておしまいって感じでした。
この朝比奈泰煕は朝比奈吉俊の子として誕生。掛川城主系朝比奈氏が史料にはっきりと登場するのはこの泰熙のときで、「宗長手記」に泰熙は文明元年(1469-89年)に駿河の今川氏の斯波氏に対する境目の城として、天王山に城を築いたといわれます。
さらに『嶽南史』には、「丹波守吉俊は今川氏親に仕ふるなり。吉俊の子は、備中守泰熙にて今川義忠に仕え大に勲功あり、始めて掛川城を築く」とあるとのこと。
泰熙が駿河国の今川氏に従い、今川義忠の命を受け、遠江佐野郡に掛川城を築城したことがわかります。
泰熙の子が泰能で、父の死後家督を継ぎ掛川城主となったのですが、幼かったことから叔父泰以の後見を受けたため、成長してからは、今川氏親・氏輝・義元と三代にわたり今川氏に仕え、今川重臣としてその職を全うしたことになります。
泰能の跡はその子の泰朝が継いだのですが、泰能の代に『桶狭間の戦い』で今川義元が信長と戦って戦死してしまいます。
「海道一の弓取り」の異名を持つ今川義元領国を継承することになった嫡男氏真ですが、重臣の多くを失ったことや、今川家臣として戦っていた松平元康(後の徳川家康)が岡崎城に入り独立を目指したことで多くの家臣も追従し離反するなど、戦国大名としての器量が乏しかったことで、今川氏の家運は一気に下ります。
そして、1568年(永禄11年)、武田信玄により駿府を捨てざるを得なくなった氏真は、配下の朝比奈泰朝が守る掛川城に逃げ込みます。泰朝は、氏真を迎えて、最後まで今川氏に忠節を尽くしました。しかし、翌年家康に攻められ掛川城を開城。
その後の泰朝は、氏真に従い掛塚湊から、船で伊豆の戸倉に移り北条氏の庇護を受けたと伝わります。
南谷遺跡
静岡県御前崎市下朝比奈(宮内温屋団地の南)で発見された『南谷遺跡』は、弥生時代中期から古墳時代初頭の水田跡を中心とする集落遺跡だそうです。
ということは、先ほど「下朝比奈という場所は、奈良時代にはすでに人々が暮らしを営んでいた朝夷郷が存在していたことになります」と記していますが、実は弥生時代中期から古墳時代初頭にはすでに水田で稲作などをしていたということになるのでしょうか?
静岡県御前崎市(旧小笠郡浜岡町)下朝比奈誰政・南谷の南谷遺跡(みなみやいせき)は、弥生時代中期から古墳時代初頭の集落で、水田跡を中心とする集落遺跡です。
発掘調査では、弥生時代から江戸時代までの竪穴系平地式住居跡・掘建柱(ほったてばしら)建物跡・土坑(どこう/直径1m以上の穴)・小穴・柱穴・水田跡と考えられる溝状遺構・不定形遺構などが見つかっています。
遺物としては、多量の弥生土器・石器・木製品・骨角器(こっかくき)などが出土しているそうです。
1965年(昭和40年)12月と翌年1月、静岡大学人文学部が農業構造改善事業に伴う発掘調査を実施し、現代の水田に掘ったトレンチ(溝)から、弥生時代後期後半の弥生土器や木製品が出土しました。
1997〜1998年(平成9〜10年度)には、宮内温屋団地南側の町道228号 早苗町南線 改良(拡幅)工事に伴い発掘調査をしました。
水田の下から、弥生時代中期中葉から後期前半の竪穴系平地式住居跡・掘建柱建物跡・土坑(どこう/直径1m以上の穴)・溝状遺構・不定形遺構、弥生時代後期前半の掘建柱建物跡・土坑・小穴・柱穴・溝状遺構・不定形遺構、弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけての水田跡と考えられる溝状遺構・護岸杭列(ごがんくいれつ)・シガラミ(柵)、奈良時代の溝状遺構、平安時代の土坑、鎌倉時代の掘建柱建物跡・土坑・小穴・溝状遺構、江戸時代の水田畦畔(けいはん)の杭列を検出しました。
こちらの南谷遺跡はまだ史跡整備されていないので、探訪は自己責任で!農地に立ち入らないで下さい。との看板が出ています。
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4279020.html
考察
御前崎市下朝比奈に鎮座する『天白神社』の創建年代や御祭神については不明なのですが、自然あふれる森の中腹に鎮座する里山にぴったりな静かな神社でした。
鎮座地である下朝比奈は、新野(にいの)川の支流朝比奈川の下流域に位置しており、古墳などから弥生時代中期から古墳時代初頭の集落で、水田跡を中心とする集落遺跡が見つかっていることから、田んぼで稲を栽培できるようになるまでの治水や灌漑などの苦労は並大抵のものではなかったかもしれません。
それでも、そんな大昔からこの地に水田跡があるということは、稲作の技術、治水や灌漑の技術が流れてきたか、その技術を教えてくれる人もいたのではないかと考えます。
駿河湾の入口に位置し、古くから船舶の避難場所として利用されていたという御前崎港まで、ここ下朝比奈からは約12.5km。だが1971年に開港したばかり。
『御櫃(おひつ)おさめ』で有名で、遠州七不思議「龍神伝説」が残る桜ヶ池まではここから約3.5km。この桜ヶ池を御神体とする由緒ある『池宮神社』(御前崎市佐倉5162)の御祭神は瀬織津姫で龍神信仰を思わせますし、584年(敏達天皇13年)の創建とされますが、当時より桜ヶ池は神格化され、池そのものを拝んでいたものとされているとか。
朝北奈城山や横舟城跡 (藤ヶ谷城跡)からは、鎌倉時代前後からの繁栄がわかり、さらに南谷遺跡からは弥生時代中期から古墳時代初頭の集落跡が見つかっているし、古墳時代の終わりごろには、桜ヶ池を御神体とする由緒ある『池宮神社』での龍神信仰が始まっていたとしましょう。
天白信仰の天白神は川や海を鎮めるともいわれていますし、中には川の神というところから龍神として祀られている場所もあるといいます。今回の下朝比奈の天白神社の創建がいつかは不明ですが、治水・農耕の神というよりは川・海の神から龍神として祀られている可能性もあるのかな?なんて素人は考えました。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。