こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回は浜松市浜名区宮口に鎮座する『八幡神社(若倭神社)』をお参りさせていただきました。こじんまりとした神社の横にはおいしそうなミカン畑が広がっていました。
社殿横の案内板によると、こちらの『八幡神社』は明治維新までは『若倭(わかやまと)神社』と呼ばれており、若倭部の氏神として祀られていたようです。
「延喜式延喜式内社麁玉郡四座(えんぎしきないしゃあらたまぐんよんざ)」の一つである『若倭神社』に比定する説があるそうで、この附近には古代の麁玉郡の役所である「軍家」があったといいます。
ただ、笠井に鎮座する『春日神社』(浜松市中央区笠井町1348-1)も、同じように『若倭神社』の論社との説があるのですが、笠井はそもそも麁玉郡ではないので疑問が残ります。規模としては笠井の『春日神社』の方が広く、境内社として「天白神社」が鎮座しているとのことなので、ひそかに御参拝を強く希望しています。
実は、もう一社宮口の『六所神社』(浜松市浜名区宮口1)も式内社『若倭神社』に比定されています。六所明神の社が申堂(庚申寺)の北東にあって、申堂と合わせて『古若倭神社』だというわけです。ですが、こちらの『六所神社』は式内社の『多賀神社』に比定する説もあるのです。つまり、宮口の『六所神社』は、多賀神社と若倭神社の2つの式内社に比定する説があるということらしいのです。実にややこしいでございます。
話を元に戻しましょう。今回お参りさせていただいた浜名区宮口の『庚申寺』の西に鎮座するこちらの『八幡神社』、御祭神は誉田別尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊です。
もしかしたら浜松市民が注目しているのは、こちらにある若倭部身麻呂(わかやまとべのむまろ)の万葉歌碑かもしれません。何と言いましてもこちらの万葉歌碑には、万葉学者の犬養孝(いぬかいたかし)の書で、『万葉集』原文の万葉仮名で記されているというのですから、万葉集ファンには堪らないのではないでしょうか?
1990年(平成2年)、若倭部身麻呂の出身が麁玉郡であることと「若倭」の名にちなみ、こちらに歌碑が建てられたとのことで、申し訳ないのですが『八幡神社』の社殿よりも先に目に飛び込んできてしまいました。
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『八幡神社』(若倭神社)
鎮座地:静岡県浜松市浜名区宮口319-1
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[宮口駅]から徒歩約11分
車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から約14分
駐車場:屋台小屋の横に停めさせていただきました
御朱印:不明
創建
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八幡神社(若倭神社)と万葉歌碑
この八幡神社は若倭神社とも呼ばれ、延喜式内社麁玉郡四座(えんぎしきないしゃあらたまぐんよんざ)のひとつ若倭神社に比定する説があります。また、この附近には古代の麁玉郡の役所があったという説もあります。
社殿の横に建つ万葉歌碑は万葉学者の犬養孝(いぬかいたかし)の書で、『万葉集』原文の万葉仮名で記されています。歌の内容については、歌碑の裏側に説明があります。
この歌の作者である若倭部身麻呂(わかやまとべのむまろ)の出身が麁玉郡であることと「若倭」の名にちなみ、平成二年((1990)年、ここに歌碑が建てられました。
浜松市浜北区役所まちづくり推進課
(社殿横の案内板より)
『八幡神社』
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御祭神
・誉田別尊 (ほんだわけのみこと)
第15代応神天皇の神格化された姿であり、八幡神社で祀られる武勇と学問の神とされている。
・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
国生みをおこなった男神。夫婦和合や縁結び、殖産振興、厄除けなどのご利益があるとされている。
・伊邪那美尊(いざなみのみこと)
国生みの女神。子授かりの御利益、他にも恋愛成就、夫婦和合、安産祈願がある。
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『若倭神社(わかやまと)』
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若倭神社は「延喜式延喜式内社麁玉郡四座(えんぎしきないしゃあらたまぐんよんざ)」の一つである遠江国麁玉郡「若倭神社」に比定する説があり、若倭部の氏族神と奉齋されたと考えられています。
創建の時期は不明ですが、平安時代中期の1025年(萬寿2年)後一条天皇時代に再建の棟札が現存しているとのこと、延喜式神名(えんぎしきしんめい)帳に遠江国麁玉郡(あらたまぐん)若倭神社が載っています。
遠江国風土記伝には、若倭神社の所在地は「申堂(庚申寺)及び六所神社等その遺跡か」とあるようですが、その後庚申寺近くのこちらの八幡神社が若倭神社と判明したとのことです。
ご祭神
・天香語山命(あめのかぐやまのみこと)農業神、開発神、創庫の神、石油の神
天火明命=饒速日と天道日女命(アメノミチヒメ)の子。尾張連等の遠祖、饒速日命に従って大八洲国に降り、紀伊国熊野邑に坐した。なぜか越後一宮の弥彦神社に祀られている。
御利益は産業開発守護 農漁業守護 製塩業守護 農業守護 開運招福 出世成功
厄除け 病気平癒とすごく幅広いことに感動します。
古事記にある天香語山五世孫建筒革命(あめのかぐやまごせいそんたけつつくさのみこと)は、ここ若倭部の祖といわれます。755年(天平勝宝7年)、防人として遠江国主帳丁麁玉郡(とおとうみしゅちょうのちょうあらたまのこほり)若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)が筑紫(福岡県のうち東部(豊国の地域))に赴いた時の歌が、万葉集の防人歌にあります。
その若倭部氏の祖神である「天香語山命」を『若倭神社』で祀っています。その宮の神主家を元は若倭部と言い社地を倭下林(わかばやし)と言うと伝えられているそうです。
※若倭部身麿(わかやまとべむまろ)(奈良時代)
天平勝宝7年(755年)、防人として筑紫に赴いた遠江国麁玉(あらたま)郡の主帳丁(諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職)。
その時の歌、「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」が万葉集に採択された。また、万葉集には、ほかに遠江国 長下(ながたのしも)郡の人
物として、物部秋持、物部古麿がみえる。
※若倭部連老末呂(わかやまとべのむらじおいまろ)699年(飛鳥時代)
古代の役所があった伊場遺跡(浜松市中央区東伊場2丁目22)から出土した木簡(もっかん)に記載された人名。浜松市内で名前のわかる最古の人物。
「 渕評竹田里人若倭部連老末呂(ふちのこおりたけだのさとひとわかやまとべのむらじおいまろ」とあり、役所に呼び出された召喚状らしい。このほかにも伊場木簡には古代の人名が複数見られる。
(浜松市公式ホームページ)
万葉歌碑
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「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」
意味としては「私の妻はひどく私を恋い慕っているらしい。飲む水に妻の面影さえ映ってきて、どうしても忘れることかできない。」という、何ともロマンティックな内容の歌のようです。
万葉集の巻三十には、大伴家持(おおとものやかもち)が難波津(なにわづ)に集結中に東国の防人から集めた歌が収録されている。この中に麁玉郡(あらたまのごおり)の若倭部身麻呂(わかやまとべむまろ)の歌がある。
「私の妻はひどく私を恋い慕っているらしい。飲む水に妻の面影さえ映ってきて、どうしても忘れることかできない。」との大意であり、今から千二百余年前、この地に住んでいた身麻呂が兵士として九州へおもむく折の、ひたすら妻を思う歌である。
平成二年八月建立
浜北市・浜北市教育委員会
大阪大学名誉教授犬養孝
(石碑裏の説明書きより)
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最後に
今回参拝させていただいた浜名区宮口に鎮座する『八幡神社(若倭神社)』は、住宅とミカン畑にはさまれた場所にこじんまりと鎮座する神社でした。
ところが、若倭神社と呼ばれ「延喜式延喜式内社麁玉郡四座」の一つである『若倭神社』に比定する説もあると知ってからというもの、こちらの八幡神社(若倭神社)の歴史の古さに感動しています。
万葉集の歌碑からわかるように奈良時代、つまりは平城京に都が置かれた時代で律令制度が完成したころ、鎮座地麁玉郡から筑紫に赴いたときに奥さんを想って歌を詠んでいたとは・・・・
麁玉の地では古くから人々の暮らしがあったことは想像していましたが、伊場遺跡から出土した木簡に記載された浜松市内で名前のわかる最古の人物が、こちらの神社周辺に暮らしていたと知れば、これはもう現実も現実。確かにあった歴史という点で、何かしら境内の土・砂・石塔・祠まで愛おしく思えます。
今回は少し天白神社とは離れてしまいましたが、今井野菊氏が「天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした」と書いているのですから、『若倭神社』で祀っている「天香語山命」が、宮口に住んでいた若倭部氏の祖神となると素通りするわけにはいかないのです。
最近「X」でよく流れてくる東北地方の家の神という「オシラサマ」、起源は不明といいますが、その性格は農耕神、蚕神、災難を予知する神、疫病や諸病を除去する神などと多様と聞きます。では「天白信仰」はというと、海や川を鎮める神、養蚕の神、織物の神です。オシラサマのシラって「白」なの?
そして『若倭神社』の御祭神である天香語山命は尾張連等の遠祖、父である饒速日命に従って大八洲国に降り紀伊国熊野邑に坐したのに、なぜか越後一宮の弥彦神社に祀られている。
もしかして、もうとっくに天白信仰の大元がどこか?の答えは、どこぞの世界では出ているのかも?見つけられていないだけかも・・・。ですが、遠江にはまだまだ多くの『天白神社』が鎮座しています。次回からも「遠江の天白神社巡り」は続きます。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。