こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの地では、静岡県御前崎市新野に鎮座する『左馬武(さまたけ)神社』をお参りしてきました。こんもりとした小さな山の上にたたずんだ古社です。
『左馬武(さまたけ)神社』では、その名の通り、今川氏の一族であり、新野舟ヶ谷城の城主で新野村三千石を治めていた新野佐馬助公(にいのさまのすけこう)をお祀りしています。新野佐馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の墓と伝えられる石塔もあります。
新野左馬助公?どこかで聞いたことがあるような気がするという遠州にお住いの方、それ正解です。今もBSで再放送されるほど放送当時の人気が衰えない不思議な大河ドラマ『おんな城主直虎』に登場していましたから、印象深いのかもしれません。
新野左馬助の妹が井伊直盛の妻だったことから、佐馬助は太守である今川と井伊家の関係を取り持つような役割を果たしていました。つまり直虎の母親のお兄さんがこの新野佐馬助だったわけです。
ですから、井伊家の跡を継いだ直親が家老小野但馬の讒訴によって徳川方へ寝返った嫌疑により今川氏真に討たれたそうになった時も、佐馬助は駿府に出向いてその間違いを訴えたことで氏真も一旦は直親を許します。
ところが、小野但馬の度々の悪だくみにより、氏真が掛川城主の朝比奈泰朝に打ち手を命じ、疑いを晴らすために駿河に向った道中、泰朝の領内である掛川で打たれてしまいます。
氏真が井伊直親の一子、のちの徳川四天王の一人になる当時2歳の万千代(後の井伊直政)も討とうとしたのを、佐馬助が嘆願して許されたのです。その後虎松を預かりとして新野家で引き取り、養育したのが佐馬助ということで井伊家の恩人として知られます。
1564年(永禄7年)、今川氏に謀反を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め、天間橋(安間橋)付近で討ち死にしました。
地元からは情けの武将として今も慕われており、「新野左馬助公顕彰会」により大切に管理され、毎年4月に地場の新茶が献上されていると聞きます。
左馬武(さまたけ)神社
鎮座地:静岡県御前崎市新野字上組2198-2
《アクセス》
電車・バス:[菊川駅前]バス乗車→31分→[新野バス停]下車、徒歩約12分
車:東名高速道路[菊川IC]より約24分
御朱印:不明
駐車場:あります(無料)


佐馬武神社の創設は?




境内案内板によると、新野親矩は今川氏の一族で、遠江国新野の領主左馬助と称し、1564年(永禄7年)今川氏真に背いた引馬城主飯尾連竜( いいおつらたつ)を攻めたときに戦死しています。
新野親矩の妹が、井伊直盛(直親の養父/家康の正室築山殿とは従兄妹同士といわれる)の妻になっている、つまり直虎の母となっているため、1562年(永禄5年)、井伊直親(井伊氏19代当主)が氏真に謀反の疑いをかけられ殺されたとき、新野佐馬助親矩とその妻が直親の遺子万千代(後の徳川四天王の一人井伊直政)をかくまい、養育したことは有名です。
そして、時は流れ井伊直政の子孫で幕末の大老である井伊直弼(なおすけ/井伊家13代)が、家来に直政の命の恩人である新野佐馬助親矩の墓を訪ねさせ自ら弔祭しようとしたが、1860年(万延元年)に起きた桜田門外の変に倒れ、叶えることができなかったといわれています。
詳しく調べてみると、1830年(天保元年)、井伊家14代井伊直亮の時、父直中の十男中守に新野佐馬助の名跡を継がせ、井伊家の客家老とし厚遇しました。中守は新野佐馬助親良として、井伊家の家老を勤め明治までその責を全うしました。
当時の新野屋敷の跡は現在も彦根城内に現存し、彦根に建てられた龍潭寺には、新野佐馬助の供養塔が建立され、位牌とともに安置されているそうです。
この新野佐馬助親良は、井伊直弼の兄であり、新野村誌には新野佐馬助の名跡を継いだ親良が、佐馬助の墳墓調査のために新野村を訪れ、墳墓の確認を藩侯・井伊直弼に伝えたとされています。
直弼は翌春には西方への出張を予定していたため、その途中の新野村で佐馬助の墳墓を謝す予定だったそうですが、1860年(万延元年3月3日江戸城桜田門外で暗殺されてしまい叶えることができなかったとのこと。
新野左馬助親矩の墓
新野親矩は今川氏の一族で、遠江国新野の領主、左馬助と称した。永禄七年(一五六四) 今川氏真に背いた引馬城主飯尾連竜( いいおつらたつ)を攻めたとき戦死した。
親矩の妹は井伊直盛の妻となっている。そのため永禄五年(一五六二)井伊直親が氏真に謀反の疑いをかけられ殺されたとき、親矩とその妻が直親の遺子万千代(後の徳川四天王の一人井伊直政)をかくまい、養育したことは有名である。
幕末の大老井伊直弼(なおすけ)は、家来に親矩の墓を訪ねさせ、また自ら弔祭しようとしたが桜田門外の変(一八六〇)に倒れ、叶えることができなかったという。
御前崎市教育委員会 新野公民館
(境内説明書きより)
新野左馬介墓
新野左馬介は今川藩下の士なり、永禄中今川氏真の命に依り引馬の城を攻めて克たす之に死す。新野村は其居住地たりしなり
新野左馬介井伊直親の還孤万千代を救ひしこと藩翰譜に記すと云ふ
或は云う井伊氏の客家老に新野氏あり 主家の〇を助けし大功に依り世々尊重せらる
増て祖先墳墓の地を尋ねて新野村に来〇し究する所あり 山の中腹の墳墓を〇く
石棺を護紋章あり丸に堅中里 即ち新野家の家紋たり
石棺内に五輪の塔あり
其人祖先の墳墓なりとて大に喜ひ是に弔祭して去りしと云ふ
是安政年間の事なりもと云う昭和五十年九月吉日
井伊谷龍潭寺第十八世 再住妙心玄龍拜書
新野左馬助親矩公遺蹟保存會建碑
(石碑に刻まれた文言より)
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佐馬武神社境内を詳しく見てみましょう


地元では、佐馬武神社を含めた『新野四城めぐり』を推しているようで、駐車場も
しっかり無料で用意されています。


小高い山の上に鎮座するこじんまりとした『佐馬武神社』、少し狭い階段を登ります。すると、豊かな自然によって苔むした手水鉢が迎えてくれます。
石が積まれた高い場所にお墓の説明書きがあるので、ここが新野佐馬助親矩の墓と思われます。そして石碑の横にお社があります。


舟ヶ谷の城山(ふながやのしろやま)
今川氏一族で新野領主左馬助公の居城と伝わる山城『舟ヶ谷の城山』は、案内板によると、戦国期、特に天正初期、高天神城を中心とした武田・徳川両軍の攻防の頃、改修されたものと考えられているそうです。
ただ、現在は大規模農道工事や採土により、城の中心部が残されていませんが、堀切は確認できるようです。「ハイキングコース」として散策道が整備されているとのことですので、お近くのお住まいがあるようでしたらぜひ訪れてみてはいかがでしょう。
舟ヶ谷の城山
舟ヶ谷の城山は、今川氏一族で新野領主左馬助公の居城と伝わる山城である。
新野左馬助公は、虎松(後の井伊直政) の命の恩人であり、井伊家と深いつながりのある武将である。本城は、1号堀切から6号堀切のように、 V字形に大きく切られた堀切と横堀を多く持つ点に特色がある。現在は採土によって残っていないが、本曲輪、二の曲輪は土塁で囲まれ、本曲輪には、南と東に低い土塁を構えた帯曲輪が付いていた。現在の遺構は、天正期、高天神城をめぐる武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍によって改修されたものと考えられる。
御前崎市教育委員会
(案内板より)
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まとめ
今回は静岡県御前崎市新野に鎮座する『左馬武(さまたけ)神社』をお参りしてきました。こんもりとした小さな山の上にたたずむです。
徳川家康ゆかりの神社というよりも井伊家とのゆかりの方が深い気もしますが、とりあえず『左馬武神社』でお祀りしている新野佐馬助公は、井伊直政の命の恩人ともいわっれる人物であります。井伊直政といえば、家康の天下取りに大きく貢献した徳川四天王の一人ですから、あながち間違いではないでしょう。
『左馬武神社』でお祀りしている新野佐馬助公、今川氏の一族であり、新野舟ヶ谷城の城主で新野村三千石を治めていたお方です。
この新野氏とは遠江城東郡新野村(現在の静岡県御前崎市新野地区)に居住する氏族で、戦国期には今川氏の御一門衆の格式を持っていたといわれます。徳川家康も幼少期には今川氏の駿府城で暮らしていた武将ですから、当時からのつながりを詳しく見てみると面白いかもしれません。
新野左馬助親矩ももともとは、信濃国の武将・上田晴昌の次男として誕生し、後に新野親種の養子となっているそうです。今川氏の宗主が今川義元に替わり、それまで高圧的だった今川氏が井伊家を傘下に入れようとし、両氏は関係強化を図ったのです。
その時に今川義元が井伊直盛(直虎の父)の烏帽子親になり、今川庶子家・新野氏の娘(新野親矩の妹あるいは娘)と結婚させ、さらに今川氏庶子家の新野親矩は、井伊氏庶子家・奥山氏の娘を正室に迎えたのです。
この新野親矩の妹と直盛の結婚で生まれたのが直虎、直虎の許婚者であり、井伊家を継いだのが井伊直親。今川家臣でありながらも妹の嫁ぎ先の井伊家の世継ぎとなる万千代を助け、結局徳川四天王の一人となる強力な武将井伊直政を養育したわけです。
今川義元と徳川家康の関係が想像以上に良いものであったように、井伊家と今川家の関係も、もしかしたら想像以上に良いものだったのかもしれないと思っています。
というのも、『おんな城主直虎』の今週の再放送が浅丘ルリ子演じる寿桂尼と柴咲コウ演じる直虎の出会いから、井伊家が今川家から離れることを予想していた寿桂尼と許婚者であった直親を殺めた今川家に対して常に世の中を冷静に見つめていた直虎の最期の対峙を観たからです。
想像以上に人と人の結びつきが尊く描かれていて、素敵すぎて泣いてしまったから。
「〇〇〇年、〇〇の戦いで〇〇が敗れ、〇〇の政権が始まった」という歴史しか学んでこなかった昭和の人ですが、歴史ってもっと深くて尊くて潔いものだったと思えるようになってきたのは、神社巡りからいろいろな歴史を学べているからだと感じ、心から感謝しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。