こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回遠江の天白神社巡り⑦で参拝させていただいた神社は磐田市池田に鎮座する『天白(てんぱく)神社(池田大明神)』です。天竜川の磐田側の堤防沿いに鎮座しています。
御祭神は猿田彦、みちひらきの大神といわれ、日本神話での天孫降臨の際に、天照大神の命を受けた瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂へと導いた神様です。御神徳は交通安全、教育の神として知られています。
いよいよ天白神社巡りも今回からは浜松を離れ、遠江の中心地ともいえる磐田市に入ります。古くは「遠淡海国(とほつあはうみのくに)」と表記された遠江。
当時の都「奈良」から見て遠くにある淡水湖という意味で、近江国の「近淡海」の琵琶湖と対比されていたとのこと。ちなみに遠淡海は一般的には浜名湖を指すとされますが、一説には国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もあるようです。
磐田市内に鎮座する『天白神社』は3社、旧東海道沿いの”池田”、”堀之内”、福田(ふくで)近くの”小島”。そしてそれぞれ御祭神は違っており、堀之内は太田命、池田は猿田彦、小島は宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)というところが興味深いです。
今回参拝させていただいた『天白神社』が鎮座する「池田」は、そんな遠江の磐田市中心部の西方、天竜川左岸に位置します。東は上新屋・加茂・豊田、南は小立野、北は東名、西は天竜川をはさみ浜松市中央区中野町・白鳥町と隣接しています。
池田と聞けば熊野御前じゃない?と思われた方もいらっしゃるでしょう。熊野の長藤と思われた方ももちろん正解です。
こちらの池田の鎮守『天白神社』では、昔から祭典の余興として池田荘内の若者が集まり、天竜川を挟んだ浜松と東西に分れすもうをしたそうです。
これが「喧嘩角力」といわれ有名で、現在もこの風習は祭典の式角力として毎年行われているとのことで、境内には土俵と思われるこんもりとした場所にビニールシートが掛けられていました。(境内説明板より)
天竜川にとても近い鎮座地の池田辺りは、大昔から天竜川は流路が定まらず、人々が暮らせる自然環境ではなかったそうです。
7世紀になり、地方豪族の遠淡海国造・久努国造・素賀国造の領域を合併して遠江国が設置されます。現在の見付付近に国府が置かれていたのではないかといわれています。(ちなみに現在の場所とするとあの卓球の水谷選手が通った磐田北小学校の校庭あたり)
そして、8世紀ごろには奈良の都から地方の国へ国司や役人が往来するようになり、租税を納めるための交通が必要になります。9世紀には広瀬川(現在の天竜川)を渡し舟で渡ったことを証明するような記録が残っているそうです。
天竜川が池田の東側を流れていたという平安時代末期から鎌倉時代にかけては、京都松尾神社の荘園として栄えていたそうで、鎌倉幕府と京・大阪の間での人間の往来、物資流通が盛んになっていたため、東海道池田宿として繁栄していたといいます。
戦国時代には信長や家康などの武将が天竜川に舟橋を架けさせて渡ったという話をテレビや講演会で聞いたことがあります。
そして、中世の末には天竜川の流路が変わり池田宿の西側を流れるようになったため、宿場はさびれたようですが、渡舟場として多くの人々が利用していたようです。
大昔から大雨の時には氾濫を繰り返していた池田です。洪水から村や田畑を守るため、大囲提・三国堤などと呼ばれる堤防が造られ、天竜川の流路が現在のように固定されたのは昭和26年のことといいますから、たったの74年しか経っていません。
恐らく太古からの果てしもない長い間、天竜川の流路による氾濫に苦しめられていた土地だったのではないでしょうか?そのような土地に治水、農耕の神としての天白さまが根付くのは当然のことではなかったのではと考えますが、時期的なものはよくわかりません。
また「池田」と徳川家康はかなりゆかりが深い土地で、かつては天竜川には橋が架かっていなかったので川船で渡るのですが、武田軍に追われていた家康が、危急を救ってくれた恩賞として1573年(天正元年)、池田舟方衆に天竜川における渡船権が与えられます。舟方の年貢や諸役一切を免除され、1576年(天正3年)には「渡しの舟頭を殴れば死罪にする」という制札が出されるなど舟方衆は手厚く保護されました。
この渡船権によって江戸時代東海道を行き来する人々、参勤交代に向かう大名なども休んだとされる茶屋や旅籠などがある宿場として賑わったのが鎮座地の池田です。また、池田を水害から守った「三国堤」は徳川家康が命じて造られた堤防なんだそうです。
天白神社(池田大明神)
鎮座地:磐田市池田815
《アクセス》
電車・バス:JR[磐田駅]より[遠鉄バス浜松駅方面行き]に乗車[長森バス停]下
車、徒歩約12分、JR[豊田町駅]より徒歩30分
車:東名高速道路[浜松IC]より約9分、[遠州豊田スマートIC]より約14分
駐車場:参拝者用の駐車場が境内にありますが車では狭い道を入っていくため、天竜川畔の駐車場から歩くことをおすすめします。
御朱印:いただけるようです
御由緒


磐田市池田の天白神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命で、江戸時代には池田宿大明神とも呼ばれていました。
天白(てんぱく)神社
鎮座地 豊田町池田八一五番地の一
御祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
例祭日 十月十日・十一日
由緒
創建は孝謙天皇の御代勧請するとある。旧池田村は、古来三村(船方・地方·新屋)の三階級に分かれていたが、天白神社は池田村全部の鎮守であった。昔より祭典の
余興として池田荘内の若者が集まり、天龍川を境にして東西に分れ競技角力をした。これが喧嘩角力といわれて世に有名であり、その風習現在も祭典の式角力にとどめ毎年行われている。古文書に昔は池田宿大明神と呼ばれたともある
(境内説明板より)


例大祭には天竜川沿いの4地区の山車が集結するそうで、勇壮な山車の曳き回しが見どころ。次々と飛び出していく風景は圧巻とのことで、youtubeなどに動画があがっているので見せていただきました。
祭典の初日には、4町合同の山車曳き回し、「手木合わせ」が行われ、2日目には神事の「式相撲(式角力)」や、「浦安の舞」奉納、「三社祭礼囃子」披露が行われるそうです。
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御祭神


猿田彦命
猿田彦は天孫降臨の際に道案内を務めた男神で、しばしば天狗と同一視される場合があります。
御神徳
交通安全、教育の神
鎮座地の「池田の渡し」


池田の渡船は千年も前から続いていたと記録され、中世から近世まで行われていたようです。武田軍に追われていた家康が、危急を救ってくれた恩賞として1573年(天正元年)に池田舟方衆に朱印状を下し天竜川における渡船権を与えられたことにより江戸時代は渡船場として賑わいました。
ちなみに、この朱印状のレプリカが『池田の渡し歴史の風景館』(磐田市池田300-3)に展示されていて、池田の渡船の歴史を深く知ることができます。
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天竜川
池田の渡船が行われていた天竜川は、古くは麁玉川・広瀬川と呼ばれその後、天中川・天竜川と呼ぶようになったそうです。その名の由来の天竜とは「天上の竜神」のことで、竜神信仰からつけられたと考えられています。
日本屈指の急流河川である天竜川は、木曽山脈(中央アルプス)と赤石山脈(南アルプス)の間を多くの支川を合わせながら南流し、遠州平野を経て太平洋に注ぎます。
「暴れ天竜」とよばれる天竜川の流路はこれまで激しく変遷してきました。奈良時代には麁玉河(あらたまがわ)と呼ばれ、現在の馬込川付近を流れていました。
こちらのブログで何度も登場する浜松地方に伝わる坂上田村麻呂の『有玉伝説』、玉を投げ入れたことで天竜川が干上がり陸地が出現したころは平安時代。
この平安時代の終りころには磐田原台地の端を流れていました。1170年(慶応2年)の記録には池田荘の東境を天竜川としたことが記されてるそうです。
磐田市内の南部地域には天竜川の河道の跡が網目状に残り、『天白神社』が鎮座する池田を流れる坊僧川(ぼうそうがわ)も古天竜川の名残りとのことで、天竜川の流路が現在のように固定されたのは昭和26年でごくごく最近のこと。
池田への坊僧川の影響
かつての坊僧川は岡村(現磐田市岡)で天竜川の東派川(ひがしはせん)に合流して、天竜川の満水時に逆流による氾濫がおき、流域住民は苦しんでいたといいます。
そこで江戸幕府は天竜川の治水の御普請役として犬塚祐一郎を着任させます。犬塚は1830年(天保元)〜1832年(天保3)に仿僧川の改修をおこないました。
改宗内容として、岡村の天竜川との合流地点を締切り、現在の磐田市海老島/えびじま)から「海老島水道」を開削しました。これは今之浦川と途中合流して太田川河口へつなぐ新水路であり、この新水路のおかげで流域住民は仿僧川からの氾濫から救われたそうです。
また、1831年(天保2年)には犬塚は天竜川左岸の106ヶ村が相互に助け合う水防組合を組織したといいます。
まさに、この状況は現在読み進めている山田宗睦著「天白紀行」P219に書かれている”天白を治水・農耕の神と言ったとき、私が治水の語で考えていたのは、堤を築いて治水や水害といった異常な水を治め、堰で貯めた水を、ゆるやかに水路で導き、おだやかに水田へ流し入れ、流し出すシステムである。”という井伊谷についての文章のまんまがこちらの天白神社が鎮座する池田の状況だったのはないかと思えます。
現在池田の人々を氾濫から救った犬塚祐一郎の顕彰碑が草崎の旧仿僧川犬塚橋のたもとにあります。
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東海道「池田宿」
1601年(慶長6年)に徳川家康によって定められた「東海道」には。宿駅が置かれ街道には松が植えられ、1604年(慶長9年)距離の目印として4km毎に「一里塚」が築かれました。
見付宿から南進した東海道は、中泉で西に折れ池田に向かいます。見付と池田のほぼ中間の宮之一色に一里塚が築かれています。
天竜川には橋が架けられていなかったため、家康から与えられた「渡船権」を持つ池田舟方衆により「池田」から川船による渡船が行われていました。
天白神社が鎮座する「池田」は川越の宿として旅人で大いに賑わい、茶屋や旅籠などがある宿場として参勤交代に向かう大名なども休息をとったとされる記録も残っているといいます。
江戸時代以前の天竜川は「あばれ天竜」とも呼ばれ、大雨の時には氾濫を繰り返していました。洪水から村や田畑を守るため、大囲提・三国堤などと呼ばれる堤防も造られました。この「三国堤」は家康が命じて造られた堤防で、池田を水害から守った堤防です。
徳川家康とゆかりの深い池田
池田と徳川家康のゆかりは深く、言い伝えられてきた伝承もいくつか残っています。
その一つは徳川方の兵士を運んだことを感謝されて「半場」という姓を家康からもらった人々がいるということ。そして、徳川家康が浜松へと逃げ帰るのを助けた船を隠したと伝わる「船かくし池」もあったと伝わります。ただ現存はしていないようで残念です。
参照元:ふるさと散歩パンフレット
お参りしていきましょう
駐車場


境内が広く参拝者なら車を停めてさせていただけるようです。ただ、神社までの道が狭いですし、わかりづらい場所です。
おすすめは広い天竜川畔の駐車場へ停めて2~3分歩いて神社にお参りすること。川畔から堤防を登って道路を渡れば「渡船場の石碑」も見れますし。少しだけ歩いて鳥居から入る方が気持ちよくお参りできる気がします。
鳥居・石塔


手水舎・龍




やはり天白さまは水神でもありますし、手水鉢の龍がリアルでかっこいいです。
狛犬


足で押さえつけている玉がサッカーボールに見えるのは私だけでしょうか?
本殿・拝殿


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境内社・末社
拝殿から奥へ進むと、びっくりするほど多くの境内社・末社がお祀りされています。
金刀比羅宮
御祭神:大物主神 崇徳天皇


出雲大神
御祭神:大国主大神


東照宮
御祭神:東照大権現


松尾神社
御祭神:大山祇神 中津島姫命
御嶽神社
芥川明神
御祭神:芥川明神
天神社
まとめ
今回の遠江の「天白神社巡り」は、地元浜松から出ましてお隣の磐田市で参拝させていただきました。
天竜川の磐田側の堤防沿いに鎮座する『天白神社』は江戸時代には「池田大明神」と呼ばれていたとのことで、今も池田の人々を守ってくれる鎮守の神さまで、御祭神は猿田彦神で、御神徳は交通安全、教育の神として知られます。
天白信仰は本州のほぼ東半分にみられる民間信仰で、その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっています。民俗学者の柳田國男が風の神と言ったとか、書いたとかで、「謎多き天白信仰」として知られています。
今回の天竜川の堤防沿いに鎮座する池田の『天白神社』は、調べてみると太古から天竜川の流れが定まらず、大雨のたびに氾濫が起きるような治水や農耕には苦労する場所に鎮座しています。
磐田という7世紀に国府が見付に置かれ、平安時代末期から鎌倉時代にかけては鎌倉幕府と京・大阪の間での人間の往来、物資流通が盛んで東海道池田宿として繁栄していたようです。
戦国時代には武将が天竜川に舟橋を架けさせて渡り、家康が浜松へ逃げる際に船を出して助けてあげたことから感謝され、池田舟方衆に天竜川における渡船権が与えられたことにより、江戸時代には茶屋や旅籠などがある宿場として賑わった場所が、『天白神社』が鎮座する池田という場所。
やはり、治水や農耕の神としての天白さまを信仰したくなるような地域でした。国府が置かれた時代も含め、鎌倉時代、江戸時代などにも交通があり、都(奈良・京都・鎌倉)などの文化や物資の交流があるのですから、信仰も早い時期に始まったのではないでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。