こんにちは sannnigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
2024年11月24日、”謎多き天白神社巡り”でご参拝させていただいた神社は、浜松市浜名区細江町に鎮座する『八幡神社』です。
八幡神社ですので、やはり御祭神は応神天皇こと誉田別命、神功皇后こと息長帯姫命、神武天皇(初代天皇)の母として知られる玉依姫命です。
そしてこちらの『八幡神社』の境内社に『天白神社』があります。いくつか鎮座する境内社が並んでいますが、一番右側に鎮座するお社が天白神社だと思われます。
天白信仰(てんぱくしんこう)とは、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰で、その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっています。
名古屋には天白区、豊橋には天伯町の地名が残り、この遠江の掛川にも市役所近くに天白公園があります。先日記事にアップした「高貴神社」の境内社「天白社」が鎮座する上島には天白という地名があったとも聞きます。
天竜川筋の遠州地方から長野県にかけて多く分布している天白神社ですが、天白信仰については諸説あり、祭神についても瀬織津姫であったり、猿田彦命であったり、宇加之御魂神、倉稲魂神、天白羽大神あったり、太田命であったりと、まさに謎多き信仰といえます。
そんな謎多き天白信仰ですが、遠江つまりは浜松近辺の「天白神社」や「天伯社」などを巡っているうちに何かしら謎も解けるのではということで、神社巡りをしています。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
八幡神社(境内社 天白神社)
静岡県浜松市浜名区細江町三和527
《アクセス》
電車・バス:天浜線[金指駅]から徒歩約10分
車:東名高速道路[三方原スマートIC]から約23分、[浜松西IC]より約29分、[浜松IC]より約29分
駐車場:手前の「石岡地区コミュニティ防災センター」に停めさせていただきました
御朱印:不明
由緒
Clik here to view.

Clik here to view.

境内の由緒書きより創建は不詳ですが、慶長17年 (1612年)4月18日再建との記録が残されいることから江戸時代にはすでに存在していたことがわかります。
八幡神社
祭神 品陀別命(ほむたわけのみこと/応神天皇)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)境内社
・天白神社(大國主命/おおくにぬしのみこと)
・津島神社(素盞鳴命/すさのおのみこと)
・佐口神社(市杵島姫命/いちきしまひめのみこと)
・山神社(大山祇命/おおやまつみのみこと)
・春埜山由緒
創立年月日は不詳なれども慶長17年 (1612年)4月18日再建と記録あり祭事
歳旦祭 1月1日
祈年祭並びに小宮春祭 2月中旬の日曜日
夏越大祓 6月30日
例大祭 10月中旬の日曜日
新嘗祭 11月下旬の日曜日
大祓 12月31日
(境内由緒書きより)
御祭神
Clik here to view.

Clik here to view.

・誉田別命(ほんだわけのみこと)
誉田別命・応神天皇と同一とされる八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。( 八幡神 - Wikipedia )
・誉田別命(おきながたらしひめのみこと)
誉田別命は神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)と同一とされ、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として、三韓征伐の実施など約70年間統治したとされる。( 神功皇后 - Wikipedia )
・玉依姫命(たまよりびめのみこと)
玉依姫命は非常に美しい女神様だと言われることが多く、美しさを守護するとされ、主に女性からの信仰を集めています。 また、玉依姫命は姉である豊玉姫の息子と結婚し、四柱の息子を授かります。 その息子の中の一柱が日本の初代天皇に当たる神武天皇なのです。日本国と日本人との縁を結んだ神様ということから、むすびの神として篤く信仰されています。 そして子授け・安産・子育て・ご縁結び全般にご利益があります。 また大変美人なお神様であったことから、玉依姫命に手を合わせると身も心も美しくなると言い伝えられています。
関連記事≫
手水鉢と「明治百年記念植樹」と刻まれた石塔
Clik here to view.

Clik here to view.

歴史を感じる手水鉢と石塔ですう。石塔には「明治百年記念植樹」と刻まれています。
狛犬
Clik here to view.

Clik here to view.

少し唇に紅をさしたような色っぽい狛犬さんですが、少し突っ張ったような体勢で誇らしげな表情をされています。
拝殿・本殿
Clik here to view.

Clik here to view.

神様のいらっしゃる感じがひしひしと伝わる拝殿でお参りさせていただいて、奥の本殿をのぞいたら神々しい光りに包まれていました。
境内社
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

Clik here to view.

左から山神社・左口神社・津島神社・春埜神社・天白神社が鎮座しており、八幡神社の境内社となっているようです。
関連記事≫
鎮座地の細江町とは?
細江とは細い入江という意味で、奥浜名湖の別名です。引佐郡の東部南端に位置します。
浜名湖の一部である細江湖(引佐細江)を半円状に取囲み、北に尉ヶ峰(じようがみね/標高433メートル)を主峰とする引佐山地があり、南東に三方原台地縁辺部の丘陵が広がります。
西は三ヶ日町、北は引佐町、東と南は浜松市に接し、浜名湖に流れ込む川で最大の都田川が町域中央を西流し、南流してきた井伊谷(いいのや)川と合流します。天竜川ではないですが、こちらの八幡神社が鎮座する三和という土地も都田川と井伊谷川に挟まれた場所にあります。
さらに都田川流域は肥沃な沖積平野で、早くから農耕が発達した地域ということで、細江という町名は「万葉集」にも詠まれているのですから、古来川の氾濫からの沼地のような場所を耕地とするため治水や開墾に苦労した場所ではないでしょうか?
細江町には遺跡が多い
細江町には約90の遺跡があり、縄文時代中期の小野堂道(おののどうどう)遺跡が最も古く、よく知られた岡の平(おかのひら)遺跡は縄文晩期から弥生時代にかけて栄えた土地ですが、前期の弥生土器が出土し稲作伝来時の遺跡として注目されます。
細江町中川の都田川の旧河道に沿って、祝田(ほうだ)・茂塚(もつか)・川久保(かわくぼ)などの有力な遺跡が並んでいます。
岡の平遺跡から東方に入り込む谷では、悪ヶ谷・七曲(ななまがり)・不動ヶ谷(ふどうがや)・穴の谷(あなのや)・滝峯才四郎谷(たきみねさいしろうや)から銅鐸が計六口発見されており、銅鐸の谷ともよばれるそうです。
参照元:細江町(ほそえちよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
遠江の銅鐸
そして、細江町中川の七曲り2号鐸は高さ65cmの三遠式銅鐸なのです。三遠式銅鐸とは、鈕(ちょう)の頂に飾耳がなく、身の横帯には綾杉紋を採用することなどが特徴で、滋賀県から和歌山県を含む近畿地方に多い「近畿式銅鐸」から少し遅れた時期に成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布します。
また銅鐸文化圏の東限は遠江地域で、掛川市長谷の小出ケ谷で1772年(明和9年)5月に発見されたと記録のある銅鐸が、本格的銅鐸の東限とされているとのこと。そんなことから浜松市は、銅鐸文化圏の東のはずれに位置するということになり、他の古墳から出土した銅鐸などから考えると、遠江地方は弥生時代も終わりに近いころになって、銅鐸文化圏の仲間入りをしたということらしいです。
その頃の浜松地方というのは、直接的には愛知県下とつながりを保ちつつ、間接的には近畿地方に連絡をもってきた地域であったといえるようです。
銅鐸とは?
一般的に弥生時代前期の終わりごろから古墳時代の直前まで作られていたとする考えが有力だという『銅鐸』、祭器の一種と思われています。
弥生時代といえば稲作の時代と覚えています。この時期に祭器の一種である銅鐸が使われた祭祀といえば、山田宗睦著の『天白紀行』に書かれていたように治水・農耕の祭祀だったでしょう。
古い銅鐸ほど楽器として使うのにふさわしい大きさで、お寺の梵鐘とは逆で、紐で銅鐸を吊し、舌(内側の音を鳴らすもの)で音をさせる仕組みだったようです。
その後銅鐸は徐々に大形化しているとのことで、実際に音を出すというよりも眺めて楽しむような銅鐸に変わっていったようです。日本最大の銅鐸は東京国立博物館が所蔵する国重要文化財で高さ134.7cmもあるとのこと。( 浜松市立中央図書館-浜松市文化遺産デジタルアーカイブ:浜松市史 一 )
三遠式銅鐸と天白信仰の考察
Clik here to view.

Clik here to view.

『大岩山と近江の銅鐸』( 銅鐸の基礎知識)さんからお借りした『弥生時代後期の祭祀の地域性』で三遠式銅鐸の分布している地域と現在天白神社のある地域を見比べてみると、ほとんど同じ地域といえるような気がしませんか?
これが山田宗睦著の『天白紀行』P73に書かれていた”銅鐸は天白よりも少なくとも10世紀以上もはやく、イナ作とともに三遠から伊那谷をへて諏訪へ移動した”という文章と一致する事実ではないかと素人の私は考えました。
関連記事≫
まとめ
今回の記事は2024年11月24日に参拝させていただいた浜松市浜名区細江町に鎮座する『八幡神社』でした。もちろん天白信仰を求めての神社巡りですから、境内社の『天白神社』をお参りすることは忘れていません。
こちらは『八幡神社』ですので、やはり御祭神は応神天皇こと誉田別命、神功皇后こと息長帯姫命、神武天皇(初代天皇)の母として知られる玉依姫命です。日本の神社で最も多いとされる神社の一つです。八幡さまは土着の神であり、天皇の化身でもあり、元々大漁旗を意味する海神といわれ、神社では誉田別命、あるいは応神天皇の祭祀名祀られているそうです。
興味深いのはこちらの境内社である『天白神社』、そもそも本州の東半分にみられる民間信仰、住まいのある遠江には多く鎮座しています。細江町三和に鎮座するということで、この細江という場所は縄文時代中期から弥生時代に栄えた土地もあり、三遠式銅鐸も発見されています。
そして、弥生時代後期に三遠式銅鐸が分布した地図と、現在天白神社が分布する地図を比べるとそっくり!現在読み進めている山田宗睦著の『天白紀行』に書かれていた文章と一致しているのが面白くて仕方ない素人の私です。10世紀以上の時間の隔てがあることはまだはっきりとしませんが。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。