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Channel: sannigoのアラ還日記
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とても長い神社名が気になる『赤尾渋垂郡辺神社』なんと19柱もの神様をお祀りしています

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こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回ご参拝した神社は、袋井市最大の神社・静岡神社庁指定は最上等級という、なんとも長い名前で名誉ある『赤尾渋垂郡辺(あかべしぶたれこうりべ)神社』です。

 

袋井といえば、日本の伝統的な夏の風物詩の「風鈴」をモチーフに「遠州三山 風鈴まつり」で盛り上がっている「法多山・可睡齋・油山寺」を思い浮かべる方も多いでしょう。かくいう私も初詣や紅葉狩りで訪れるのは決まって「法多山」か「可睡斎」で、失礼ながらこちらの『赤尾渋垂郡辺神社』は全く存じあげませんでした。

 

先日家康ゆかりの『許禰神社』を訪ねた際の下調べ中に、いきなりネット上に現れた神社で、とても長い神社名が気にかかりました。こちらの神社ですが、合祀・境内社合わせてですが、なんと19柱もの神様をお祀りしているのです。

 

これは、最近のマイブーム「古事記」や「日本書紀」の勉強になりそうですぞ!とお参りに向ったのですが、まずは境内の広さにびっくり、さらに神聖な場所なのになぜか楽しくて暑さもぶっ飛びました。

 

もちろん、いつものように感謝をお伝えして、世界平和と地震回避のお願いもさせていただきました。

 

 

とても長い神社名が気になる『赤尾渋垂郡辺神社』の拝殿

 

 

赤尾渋垂郡辺(あかべしぶたれこうりべ)神社

 

 

鎮座地:静岡県袋井市高尾193

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[袋井駅]から徒歩約15分
車:東名高速道路[袋井IC]より約13分
駐車場:50台停められる広い無料駐車場があります。261号線沿いの『渋垂神社』の看板を左に入ると広場に出ます。
御朱印:たくさんの種類から選ぶことができます。

 

R沿いのこの看板を目印に駐車場へ!渋垂神社の御朱印はこちら


赤尾渋垂郡辺神社とは?


『赤尾渋垂郡辺神社』の創建は、奈良時代の717年(養老元年)と伝わり、遠江国造の御霊(印岐美命)を勧請したのが始まりと伝えられています。

 

901年(延喜元年)に編纂された三大実録では878年(元慶2)従五位下に列したことが記され、927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された『郡辺神社』の論社です。

 

古くから神仏習合し、739年(天平11年)に行基菩薩が開山した後の長楽寺(真言宗)が祭祀を司り、1157年(保元2年)に境内が整備され改めて赤尾山長楽寺に寺号を改称、最盛期には吉祥院、安寿院、拾楽院、善養院、大乗院の5院を擁する大寺院として寺運も隆盛しました。

 

戦国時代の争乱の兵火により大きく衰微し大乗院と善養院が中心となり再興、江戸時代に入り高野山普門院の末寺となり、幕府からは寺領15石の朱印状を賜っています。

 

明治時代初頭に発令された神仏分離令、また一村一社制といった国策に合わせて仏式を廃し神社として独立します。

 

境内神社や旧高尾地内大小数社の合祀が行なわれ、二つの本殿であった赤尾神社・渋垂神社の合祀を始め、郡辺神社(別名 六所大明神・延喜式内社)・若一王子神社・八幡神社・山名神社・敢国神社・天伯神社・八面神社・津島神社・天神社・注連神社等が合祀されました。

 

1872年(明治5年)に郷社に列し、1915年(大正4年)に神饌幣帛供進社に指定されています。当初は山名郡高部村に鎮座していましたが、その後、高尾村字六所に遷座し、1889年(明治22年)の東海道本線の開通、袋井駅整備に伴い1900年(明治33年)に現在の地に遷座しています。

 

御祭神は、息長定姫命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)、譽陀和気命(ほんだわけのみこと/応神天皇、)玉依姫命(たまよりひめのみこと)の他16柱で、合祀・境内社合わせてですが19柱もお祀りしているそうです。

 

明治期より郷社(旧高尾、豊沢、愛野を代表する社)に制定され、旧高尾・豊沢愛野地域の守護神です。御神徳は、土地家屋の守護、縁結び、安産、子育て、商売繁盛、土木建築、交通安全等、霊験あらたかと伝えられます。

 

境内社は白山神社・弁財天社・礎國神社で、史跡として渋垂神社古墳群・弘法大師霊場・水子霊社などが知られています。

 

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朝早すぎたのか?やはりセミにとっても暑すぎるのか、セミの鳴き声が少ないことが気になりますが、さっそく広い駐車場に車を置かせていただいてお参りしていきましょう。

 

 

鳥居の前で狛犬が神社を守っています

 

鳥居と赤尾渋垂郡辺神社略紀

 

鳥居をくぐってすぐに、右側に涼し気な池が見えてきます。こちらの池には『赤尾弁財天社』が鎮座しています。

 

赤尾弁財天社

 

涼し気な神池には『』が鎮座しています

 

御祭神は白龍神・弁財尊天(市杵島姫命)です。ご由緒書きから、例祭日は4月8日後の日曜日、創祀年代は不詳ですが、昭和28年に改修されたようです。御神徳は、縁結び・安産・子育て・財施(金運)・婦道守護(女子の神様)・音楽上達、芸事上達です。

 

こちらの本殿は、浜松市から移転したもので、古の時代、境内の池に、農耕や水の守護神を祀ったと伝えられます。

 

境内社『白山神社』

 

真新しい『白山神社』、合祀神社は山名神社・敢国神社・津島神社

 

『白山神社』はかつてといいますか、2011年(平成23年)の台風で被害を受ける前は、拝殿の右奥の階段を上ったところに鎮座していたようです。復旧が難しいのか場所を移して現在はこちらの場所に鎮座していますが仮かもしれません。

 

『白山神社』の旧名称は白山妙理大権現社(はくさんみょうりだいごんげんしゃ)です。

 

かつての『赤尾渋垂郡辺神社』の境内社である『白山権現社』の社殿は1588年(天正16年)に造営されたもので、禅宗様式を主体とした安土桃山時代に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重な事から、1976年(昭和51年)に袋井市指定文化財に指定されています。中世、宮僧の神託により境内本社から山名、敢國神社を分祀。

 

御祭神は以下の7柱です。
菊理姫命(くくりひめのみこと)
印岐美命(いぎみのみこと/別名遠江國造(とうとうみのくにのみやつこ)
素戔鳴尊(すさのおのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
伊弉册命(いざなみのみこと)
金山毘古命(かなやまひこのみこと)
金山毘賣命(かなやまひめのみこと)

 

合祀神社は以下の3社です。

・山名神社(やまなじんじゃ)
・敢國神社(あえくにじんじゃ)
・津島神社(つしまじんじゃ)(境内本社から分祀)

例祭日  7月15日の前の日曜日で、御神徳 五穀豊穣・病気平癒・諸業清祓です。

 

立派な龍が見えてきました。手水舎で手を清めましょう。

 

手水舎

 

龍がかっこいい手水舎の手水鉢

 

境内社の礎國(そこく)神社

 

旧袋井市内(浅羽町と合併前)の英霊を祀る『礎國(そこく)神社』

 

昭和26年11月、大門地区にあった若一王子神社の本殿を転用し、旧袋井市内(浅羽町と合併前)の英霊を祀り、慰霊を行なった。浅羽町との市合併に伴い、市奉賛会は解散となり、現在は、神社主催で慰霊祭が行なわれているそうです。

 

御祭神は、旧袋井市内の明治・大正・昭和の英霊(えいれい) 1370柱で、例祭日9月30日です。御神徳は国家安泰・家内安全。

 

『赤尾渋垂郡辺神社』拝殿・本殿

 

赤尾渋垂郡辺神社の『拝殿』と『本殿』

 

現在の赤尾渋垂郡辺神社『拝殿』は1916年(大正5年)に改築されたものです。本殿は1852年(嘉永5年)に造営されたものだそうです。

 

彫刻は諏訪の名工立川和四郎(たてかわ わしろう/江戸時代中期から信濃国(現在の長野県)諏訪郡を本拠地に活動した宮大工)の名跡。江戸幕府作事方立川流の地方分流。

 

1951年(昭和26年)社殿を改修。2002年(平成14年)神社本庁指定神社。2006年(平成18年)社殿改築・社務所新築、2011年(平成23年)の台風被災後、境内・山林整備を行ったとのことです。

 

『赤尾渋垂郡辺神社』の由緒書きと『扁額』

 

願掛け宝珠石(ほうじゅいし)

 

願掛け宝珠石を両手で持ち上げて願い事が叶うかどうかを占います

 

拝殿横には、ちょっと重そうな石を持ち上げて願い事が叶うかどうか?を占うことができる「願掛け宝珠石」がありました。私ったらしっかりと持ち上げることができました。で願い事が叶うわけではないのです。

 

説明書きの通りに

①まず宝珠石を両手で持ち重さを感じてください。

〇重いので持ち上がる寸前でも良いです。

②宝珠石に願をかける。

〇願い事は少なめに、願いすぎに注意しましょう。

③再び両手で宝珠石を持ち、重さを感じる。

〇先ほどより軽く感じたら、願い事叶い易し。

宝珠石を持ちあがてみたものの、最初より重く感じた私の願い事は遥か彼方へと立ち去りましたとさ!

 

合祀神社 及び 御祭神

・赤尾神社

  御祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
      伊弉册命 (いざなみのみこと)
      菊理姫命 (くくりひめのみこと/イザナギとイザナミが黄泉の別れに臨もうとしたときに、その仲裁を果たした役割から、男女の仲を取り持つ縁結びの神や事業の商談成立の神といわれる。 また、死者イザナミと生者イザナギを取りもつ関係からシャーマンの元祖といわれることも)


・渋垂(しぶたれ)神社

  御祭神 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)
      誉田別命(ほんだわけのみこと/応神天皇)
      玉依姫命(たまよりひめのみこと/神武天皇(初代天皇)の母)

 

郡辺(こうりべ)神社

江戸期は六所神社といい、西通り境付近より明治34年合祀
  御祭神 
   住吉三神
   ・表筒男命(うわつつのお)
   ・中筒男命(なかつつのお)
   ・底筒男命(そこつつのお)

 

   綿津見三神(わたつみさんじん)
   ・表津綿津見神(うわつわだつみのかみ)
   ・中津綿津見神(なかつわだつみのかみ)
   ・底津綿津見神(そこつわだつみのかみ)

  ・大己貴命( おおなむちのみこと/大国主神)

※住吉三神とは伊奘諾尊が黄泉の国の穢れを清めるため、筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をして水上で身をすすいだときに出現した。この時に神直日神・大直日神・伊豆能売神(あるいは八十枉津日神)と、綿津見三神(表津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神も生まれている。綿津見三神も御祭神。さらに大己貴命と7柱をお祀りしているようです。 

 

〇山名敢國神社 (やまな あえくにじんじゃ)

中世に赤尾長者屋敷裏山や南宮山にあったと伝わります。

御祭神
 印岐美命 (いぎみのみこと/別名 遠江國造(とおとうみのくにのみやつこ))
 伊弉諾命 (いざなぎのみこと)
 伊弉册命 (いざなみのみこと)
 金山毘古命 (かなやまひこのみこと/イザナミ命が火の神カグツチを生むときに陰部を焼かれて、病んで苦しみながら吐いた嘔吐物から、金山毘賣命とともに生まれた神さまで、製鉄の守護神としてタタラ(製鉄所)に祀られる金屋子神がこの二神の御子神とされている)
 金山毘賣命 (かなやまひめのみこと)

 

〇若一王子神社 (わかいち おおじじんじゃ)

郡邊神社摂社で、大門南保育園のところに鎮座していたとのこと。
御祭神は、天忍穂耳尊 (あめのおしほみみのみこと/日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父。天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)をしたときに生まれた神)

 

〇八幡神社 (はちまんじんじゃ)

境内に鎮座していたという神社

御祭神
 譽陀和氣命 (ほんだわけのみこと)
 玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
 息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)

  

〇天伯(てんぱく)神社 

下地字天伯に鎮座していたという神社

御祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと)
 

〇八面神社 (はちめんじんじゃ)

高部村字高部鎮座していた神社

御祭神は素戔鳴尊 (すさのおのみこと)

 

〇津島神社 (つしまじんじゃ)

 郡邊神社境内鎮座していた神社

御祭神
 素戔鳴尊 (すさのおのみこと)
 

〇天神社 (てんじんしゃ)

郡邊神社境内鎮座

御祭神は菅原道真公 (すがわらみちざねこう)

 

〇注連神社 (しめじんじゃ)

下地地内

御祭神は不明

 

〇御所の森神社 (ごしょのもりじんじゃ) 

郡邊神社へ合祀と伝えられる。後醍醐天皇の御子の伝説がある。

 

〇水子御霊神社(みずこみたまじんじゃ)

水子供養のための神社

 

〇弘法大師霊場(こうぼうたいしれいじょう)

赤尾山長楽寺時代の歴代住職の奥津城が集められている。

 

〇遠江國造御神廟 (とうとうみのくにのみやつこのごしんびょう)

『國造本紀(くじほんぎ)』に、「成務天皇の御代 物部連祖(もののべのむらじのそ)伊香色雄命兒印岐美命(いかがしこおのみことのこいぎみのみこと)を國造(くにのみやつこ)に定め賜う」とある。

 

また、当社古文書や笠西村史要には、澁垂神社の東北の峰に塚があり、印岐美命(いぎみのみこと)を祀り、山名大神と称するとある。塚には老松二樹ありしも1824年(文政7年)8月大風のために倒れる。

 

この神社は、元禄12年正月(1699年)より、文政5年(1822年)に至るまで年々殿様へ大麻を献上せしと伝えられる。現在、此の御神霊は、境内の本社と白山神社に合祀されている。

参照元:赤尾渋垂郡辺神社 静岡県袋井市

 

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最後に

 

今回の古の遠江の神社は、袋市市最大の神社で、名前がとても長い『赤尾渋垂郡辺神社』でした。

 

過去一暑かったであろう2024年の夏に出かけた神社の中でも、鳥居をくぐると不思議と涼し気な気分になれた神社です。きっとこちらで祀られている19柱もの神様のおかげかなと思います。

 

かって縄文人・弥生人というと、アニメの『はじめ人間ギャートルズ』で見たような毛皮を身に着け、マンモスを追いかけ、大きな石をお金として使っていたというイメージを持っていたアラ還です。

 

最近になってようやく、実際に発掘されたものからっもわかるように、縄文時代の女性は、アクセサリー(イヤリングやブレスレットなど)をジャラジャラと身につけるようなおしゃれな人々だし、武器も作らない時代が1万2000年以上前から1万年も続いたあこがれの時代だったと知ることができました。

 

ただ、大きなもので地震や台風、ちょっとしたものでは木の実がネズミに食べられるとか、せっかく獲った魚が腐って嫌なにおいがする、なんてことが起きるのはどうして?と感じるのは当たり前でしょう。

 

そこで、縄文時代の人々はこのような自然現象を霊的な存在の影響だと考え、狩猟の儀礼や食事、また妊娠・出産・死などの節目にはアニミズムの信仰で対処していたようです。つまり、縄文時代の人々は目に見えない何か、自然(巨石や樹など)に宿っている精霊を信仰していたということです。

 

奈良時代になって日本の神と仏教の仏菩薩は本来同じものという考えで、神社と寺院が同じ場所に祀られ信仰される『神仏習合』(神社の本殿に仏像を祀ったり、寺院の境内に鳥居がある)が、明治時代の神仏分離政策によって禁止されるまで続いたといいます。

 

縄文時代からの信仰が続くこの地に739年に行基菩薩が開山した長楽寺、神仏習合後1157年「赤尾山長楽寺」に改称し、最盛期には5院お擁する大臣として隆盛、明治時代初頭には神仏分離令によって仏式を廃し神社として独立。

 

さらに、境内神社や旧高尾地内大小数社の合祀が行なわれ、二つの本殿であった「赤尾神社・渋垂神社」の合祀、郡辺神社(別名 六所大明神・延喜式内社)・若一王子神社・八幡神社・山名神社・敢国神社・天伯神社・八面神社・津島神社・天神社・注連神社等が合祀されたという長く名誉ある歴史が、今回参拝した『赤尾渋垂郡辺神社』の名称にぎゅっと詰まっているのを実感しました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 

 

 

 

 


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