こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりのお寺は、浜松市天竜区山東にある『金光明山光明寺(こうみょうじ)』です。
奈良時代に行基が密教修験の地として開創したと伝わる名刹で、北遠三霊山のひとつ。標高540mある光明山にある曹洞宗の寺院です。ご本尊の三満虚空蔵菩薩は行基作と伝えられます。
大黒堂には木造では国内最大級の高さ約2.3mの金ぴかの大黒天像があり、開運福寿、商売繁盛などの御利益があるといわれています。
また、1575年(天正3年)武田勢の襲来を知った光明寺の住職が家康に知らせ、追討できたという伝承も残されています。
思いのほか、広い境内では春から夏は青もみじが楽しめますし、春と秋(11月下旬)に花を咲かせる四季桜が約20本あり、紅葉のシーズンは桜とモミジの共演が楽しめ、四季を通じて美しい景色を楽しめるのが魅力です。
ただ、ここ数年の夏は暑すぎますので、足場の悪い坂道を『奥の院』を目指し10分程度登る事を考えると、夏の盛りよりは青もみじが楽しめる春から初夏、さらに四季桜と紅葉が楽しめる秋がおすすめです。
光明寺
場所:静岡県浜松市天竜区山東2873
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[二俣駅][二俣本町駅]より徒歩約28分
遠鉄[西鹿島駅]から遠鉄バス[二俣山東行き]に乗車、[光明寺入口]下車、徒歩約5分
車:新東名高速道路[浜松浜北IC]より約10分
東名高速道路[浜松IC]より約30分
駐車場:参拝用の広い無料駐車場があります。
御朱印:いただけます
光明寺とは?
浜松市天竜区山東にある『光明寺』は奈良時代(717年)に元正天皇の勅命を受けた僧行基により開創された遠州地方の古刹で、北遠三霊山のひとつ光明山にあります。
また、徳川家康公により納められた、家康公自身が守り神として兜に入れて出陣したと伝わる「摩利支天像」が、山頂の奥の院に祀られており、今川家・徳川家御本丸の祈願所として信仰されてきました。
御本尊
光明寺はなんといっても『大黒様』が有名ですが、御本尊は虚空蔵菩薩で、京都の法輪寺や伊勢の金剛証寺とともに「日本三虚空蔵」と言われ、智と福と威信という3つを満たすという御利益があるとのことです。
青もみじの石段
参道の石段を上っていきましょう。夏真っ盛りの今、石段の青もみじはある意味「救いの存在」ともいえるほどの清涼感を与えてくれる貴重なうるおいです。
石段を上りきると、そこには思ったよりも広く、神聖な空気が漂い玉砂利が心地よい境内が広がります。龍がすてきな手水舎で、手を清めお参りしていきましょう。
手水舎
境内の正面には『大黒殿』左手に『光明殿』と並びます。手水舎の向こうに見える光明山の『お稲荷さん』からお参りしていきましょう。
光明山の『お稲荷さん』
尾巌荼枳尼眞天(おいわだきにしんてん)
光明山のお稲荷様は尾巌荼枳尼眞天と申します。
常に白狐に跨り、稲荷を荷い、守珠を捧げる妙相端麗な霊神でありますが、そのお姿故にお稲荷さんと呼ばれております。
古くより、豊川稲荷様のお姉さん稲荷にあたると言われており、家内安全。商売繁盛、また、失せ物を見つけていただける「お稲荷さま」として信仰いただいております。
(案内板より)
摩尼車(まにぐるま)
『大黒殿』の正面の位置にあるのは回すことができる『摩尼車(まにぐるま)』です。(写真がなくてすいません)
真言の「おんろぎゃろ ぎゃぎゃらやそわか」と唱えながら右回り(時計回り)に回転させてみましょう。
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光明殿
大黒殿
正門から石段を上ると正面に『大黒殿』があります。大黒堂の扉は閉まっていますが、「自由に開けて参拝してください」との案内板があるので、遠慮なくお参りさせていただきましょう。
扉を開けると現れる金ぴかの大きな大黒様には誰もがびっくりすることでしょう。『大黒殿』には、日本最大級の木像の『大黒真天像』が鎮座しているのです。
大黒様
この大黒様ですが、周囲約10mの一本杉の木で彫られた、木造では日本最大級の黄金に輝く大黒様で、そのピカピカの輝きにはびっくりします。(1931年(昭和6年)の火災の際にやむなく伐採した大黒杉の巨木に仏師の岡田天孝が掘り込んだものだそうです。)
存在感たっぷりの大黒様、手には打出の小槌を持ち、にこやかなお顔です。開運福寿・商売繁盛に御利益があり、パワースポットとしても有名だそうです。
金運アップを期待するのなら、大国堂右側の杉の木に、通帳やお財布をこするといいみたいです。こうすると金運が上がるといわれていますから。
さらに、毎年1月の第3日曜には、大黒天像の大祭「初甲子祭(はつきのねさい)」が開かれ多くの参拝者でにぎわうそうです。なぜなら、この日に光明山の大黒様にお参りした後、新しいお財布をおろすと特にご利益があるともいわれているからです。ぜひ!お試しあれ!
続いて、光明山中腹にある「摩利支天」が祀られている『奥之院』をお参りしていきましょう。
奥之院
大黒殿の背後の山には、「摩利支天」を祀る『奥之院』があります。足場の悪い坂道を10分ほど登るとようやく「奥の院」が迎えてくれます。
こういった山の上に立っているお寺などを見ると、どうやって建てたのか?大変だったろうな!といつも感じます。が、実は幼稚園の子も登れるそうで、年を取るってこういうことなのか!と実感します。
光明寺の「摩利支天」は戦の守護神として信仰され、戦国時代には今川義元や徳川家康も祈願したといいます。
特に徳川家との繋がりは深く、家康が守り神として自らの兜の中に入れていた「摩利支天像」も併せてお祀りしており、徳川将軍家代々の祈願所となりました。
狛猪
こちらには狛犬ならぬ『狛猪』があり、お茶目なお顔は親しみやすい感じです。どうして猪?と調べてみると、摩利支天が猪に乗る神様だからかもしれません。
摩利支天
摩利支天とは、仏教の守護神で、特に中世以降武士の間で信仰を集めたと伝えられています。山岳信仰とも深い繋がりがあったのではないかと考えられているようです。その摩利支天のお姿というと、お顔は三面、猪に乗った姿であるともいわれています。
奥之院からの浜松市内の眺望は素晴らしいと評判です。なんとアクトタワーまで見渡せます。さらに登れば展望台があり、さらにすばらしい景色が見られます。
光明勝栗
松潤が昨年の大河ドラマ「どうする家康」の関連番組でこちらの『光明寺』を訪れ、『光明勝栗』を「堅ーい」といいながら剥いた姿が全国で放送されたと聞けば、「あの栗ね」と、思い出す方も多いかも?
光明勝栗とは
かち栗とは武士が携行した保存食として知られています。収穫した栗を天日干しし、手作業で渋皮を取り除いて作ります。松潤が「堅ーい」と言っていた作業はこの渋皮を除く作業だった記憶があります。
光明勝栗の由来は、『天竜市史』によると、三方ヶ原の戦いの1年余り後の1574年、家康が武田方の犬居城(春野町)を攻撃して退却した際、光明寺の僧侶や地元の農民が家康を助け、栗を献上したこととされると新聞記事で知りました。
家康は翌年にも出陣し、二俣城を含む一帯を平定することができ、農民たちは江戸幕府に勝栗の献上を続け、諸役免除の特権を得ていたといいます。
『家康伝承と浜松』という浜松市博物館による編集の本によれば、
家康が城を取り戻すため、部下数千人と二俣城を攻めたが、武田の守りは固く、なかなか落城しなかった。その様子を知った光明寺の高継和尚は家康に二俣城に続く抜け道を教えた。家康はその道を通り、激戦の末ついに城を落とすことができ大喜びであった。
高継和尚は只木村の栗で搗栗(かちぐり)を作り家康に献上するよう地元の百姓に伝えた。差し出された栗を見た家康は、「光明搗栗」は「功名勝栗」で縁起が良いと上機嫌で百姓に褒美を与えた。
この栗は毎年江戸城に納められ、献上は明治にまで続いた。
( https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/100139/ieyasudenshou.pdf )
とのことです。
地元の勝栗を献上したとされる子孫の方が5年ほど前から勝栗の復興に取り組み始め、保存会の皆様が受験シーズンになると、『光明勝栗』のお守りを地元の中学3年生に贈呈しているそうです。もちろん、「天下をとった家康公にあやかりますように」との激励を込めて。(中日新聞よりの記事より)
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光明城と光明寺
『光明城』とは、旧秋葉街道沿いのこの地に行基が密教修験の地として開創した『光明寺』を今川氏が接収して山城に改築したものです。
そのため、一時期『光明寺』は現在の山東の地に移転させられました。戦国時代、家康は光明城の麓の横川に布陣し、ここを本陣とし光明山で武田軍と戦います。
本多忠勝・榊原康政らに命じて光明城の大手(正面)にあたる仁王堂口から攻めさせ、家康の本隊からは旗本衆を城の背後に繰り出して攻撃させ、この猛攻に武田は降伏開城しました。
江戸時代に入り再び光明山に『光明寺』が再建され発展したそうです。現在『光明城跡』に残る石垣は再建された光明寺の名残のようです。
しかし、1931年(昭和6年)に光明寺は大火に見舞われ、寺院は本堂一帯を焼失してしまいます。そこで、再び『光明寺』は山東の地へと移転したのです。
どこで撮影したのだろう?奥之院より下か上かの記憶がないため、最後に載せておきます。ほっこりとしたお地蔵さん?はたまた、道祖神?
最後に
今回は家康公ゆかりの地ということで、家康公自身が守り神として兜に入れて出陣したと伝わる「摩利支天像」が、山頂の奥の院に祀られている『光明寺』をお参りしてきました。
特に興味のあった家康公の守り神「摩利支天像」が祀られているのは『奥之院』、『奥之院』とは、10分ほどの山道を登るという情報をTV番組で得ていたため、ついつい後回しにしていたら、ついに放送終了後の翌年の真夏に訪ねることになってしまいました。
徳川と織田の連合軍が武田勝頼を倒した『長篠・設楽原の戦い』以降、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城・二俣城を攻略し、高天神城への締め付けを強化していくといきます。
徳川家康の長い人生のなかで、最も忙しく過酷な1年が1570年(元亀元年)と言われます。家康はこの年に29歳で浜松城へ本拠を移します。それから江戸へ移るまでの17年間に数え切らないほどの伝承を遠江付近で残しています。
そのほとんどが、助けてもらったり応援してくれた人は百姓であろうと商人であろうと覚えていて、やっとうまくいった時に今回の光明寺の勝栗のように「諸役免除の特権」を与えたり、「寺紋」「土地」「名字」「専売の権利」などを与えて感謝の気持ちを表していることがわかります。
大河ドラマ放映前までは、たぬきなどと言われ、織田信長や豊臣秀吉のようには現在人受けしなかった武将だった気がします。ところが、地元が舞台のドラマだったことや、嵐の松潤が家康を演じたことにより、家康に関する歴史にドはまりした結果、「家康って本当にいい人だったんだ」と思うようになったし、世間の皆さんにもそういう人が増えたように感じます。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。