こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の遠江の神社・仏閣は地元の人々から「お薬師様」や「赤池さん」として親しまれている地域では数少ない黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院『白華寺(はっかじ)』です。
浜松市中央区にある『白華寺』は伝承での創建は794年(延暦13年)と古く、ご本尊は薬師如来です。参道脇の『放生池』には金運招福弁財天が祀られており、また境内入り口に『俊光将軍誕生の旧蹟』と書かれた碑が建っています。
以前アップした『有玉神社』の記事に、坂上田村麻呂と赤蛇神との間にできた俊光公を祀っている有玉神社内の『俊光将軍社』が登場します。この俊光公が産湯を使ったと伝えられている『赤池』が境内にあり、山号の由来となり『赤池山白華寺』となったとのことです。
本堂の奥にある階段を登ったところには『江馬加賀守平時成之墓・江馬殿松』があります。境内の案内板にも”江馬加賀守平時成公眼病平癒祈願せりとも伝えられる”と、あるように「眼病」にご利益があるということで、私も足しげくお参りに訪れているお寺さんです。聞いたところでは”夜尿症(おもらし)にもご利益がある”という変わった言い伝えも残っているそうです。
赤池山白華寺(はっかじ)
場所:静岡県浜松市中区上島7-14-50
《アクセス》
電車・バス:遠鉄電車[上島駅]から徒歩約13分
遠鉄電車[自動車学校前駅]から徒歩約17分
遠鉄バス[赤池薬師]下車徒歩約2分
車:東名高速道路[三方原IC]から約5分
東名高速道路[浜松西IC]から約10分
駐車場:参拝者用の駐車場が数台分あります
御朱印:いただけます
※書置きですが本堂のお賽銭箱の横の引き出しへ入れてくれてます。300円をお賽銭として頂いてきました。手書きをご希望なら連絡先が同じ場所に提示されていますので、連絡してみてください。
白華寺
『赤池山白華寺』は、遠江四十九薬師の第二十五番札所とされ地元の人々から「お薬師様」や「赤池さん」として親しまれています。地域では数少ない黄檗宗の寺院です。
『白華寺』の歴史は古く、いくつかの末寺を有する大寺だったのですが、度重なる火災によって焼失し、本堂としている薬師堂のみが現存しているそうです。
明治維新後に、五日市場(浜名区細江町)から光福院跡地(現在地)に移転しています。現在敷地内には、浜松市の保存樹林に指定されている杉の大木や、俊光将軍が産湯を使ったと伝えられている赤池があり、龍女菩薩像や六地蔵などが祀られています。
本堂内に安置され ている薬師如来は江戸時代より”眼病にご利益がある”とされ、今でも参拝者が絶えません。また、変わった言い伝えとして”夜尿症(おもらし)にもご利益がある”と伝えられています。
鎮史
赤池山白華寺略縁起
当山の伝承は、平安初期桓武天皇の御世、延暦十三年 (七九四)征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり遠江国岩田の海に赤蛇が住み渡海の旅人に危害を加えていた。
田村麻呂将軍は、諸住民の難渋を救うべく 遠江国小笠郡掘之内潮海寺より薬師如来を勧請し 薬師堂を建立祈願し、佛力に依り赤蛇は田村麻呂の子を産み形見として将軍に預け以後岩田の海の航行往来安全を約し二俣鹿島の椎ケ脇の渕に沈むと伝えられる。
境内には坂上田村麻呂の子 二代将軍俊光公誕生の産湯の池が有ります。 寺伝に依れば、当時、真言宗広儀山湖海寺末光福院と称し、 東円院、三松院等末寺六ヶ寺を有すると伝えられるも 長い年月時代の推移に依り、末寺も廃寺となり室町時代までに も廃寺となり室町時代までに 光福院も無住に等しい荒廃の状況でありましたが 今も地名に残る大門、大門下、天自(光福院守護神)膳棚柿ノ木、定観治等に名を残しております。
寺院は、何時の時代から無住荒廃しましたが、薬師堂のみは 里人達の信仰に依り存続され江戸時代より、眼病祈願成就の 霊験あらたかなりと知られ、祈願者多数参拝せりと伝えられる。 また江馬加賀守平時成公眼病平癒祈願せりとも伝えられる。 遠江四十九薬師第二十五番札所として、薬師巡り巡拝も盛んになり、 毎年二月八日の例祭には薬師堂内に近隣の念佛講中に依る和讃も。 大正時代初期まで盛大に行われました。
明治二十九年(一八九六)当時光福院兼住(上島村延命寺十六世))杉蓮三和尚より積志村半田実相寺住職舘燈外師が引継ぎ、 引佐郡細江町より白華寺(開山海岩和尚))移し黄檗宗に改宗する。 舘燈外師も兼住寺院を保持す。昭和年代に 京都より、松居弘倫師(後に盛岡市大慈寺住職)を迎え、 現在は弟子の松居信善が住職を務める。
赤池薬師杉=樹齢推定六百年昭和五十二年(一九七七)
浜松市保存樹木指定名木となる。
蹟=江馬加賀守平時成公之墓 江馬殿松 永禄十一年(一五六八)戊辰十二月十五目遠州曳馬城討死
魂=昭和五十六年(一九八一)大東亜戦陣没者 六十一柱の英霊供養のため建立
白華寺十一世 松居信善
寄贈 浜松市
大屋建築 大口
(境内内案内板より)
案内板での言葉の意味が私には難しかったので、多分以下のような内容かなと思います。
平安初期桓武天皇の御世、延暦13年(794)征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり大見遠江国岩田の海(天竜川の下流)に赤蛇が住み渡海の旅人に危害を加えていました。そこで、田村麻呂将軍は、諸住民の難渋を救うべく遠江国小笠郡堀之内潮海寺より薬師如来を勧請して薬師堂を建立祈願し、仏力に依り赤蛇は田村麻呂の子を産み形見として将軍に預け以後、岩田の海(天竜川の下流)の航行往来の安全を約して、天竜の二俣鹿島の椎ケ脇の渕に沈んだと伝えられます。
境内には坂上田村麻呂の子(赤蛇が産んだ子) 二代将軍俊光公誕生の産湯の池が有ります。 寺伝によれば、当時は真言宗広儀山湖海寺末光福院と称していました。
東円院、三松院等の末寺六ヶ寺を有していたと伝えられていますが、長い年月を経て、末寺も廃寺となり室町時代までに光福院も無住に等しい荒廃の状況でありましたが、今も地名に残る大門、大門下、天自(光福院守護神)膳棚柿ノ木、定観治等に名を残しております。
寺院は、何時の時代から荒廃しましたが、薬師堂のみは 里人達の信仰によって存続され江戸時代からは、『眼病祈願成就の霊験あらたかなり』と知られるようになり、多くの人が参拝したと伝えられています。 また「江馬加賀守平時成公」が眼病平癒を祈願したとも伝えられています。
遠江四十九薬師第二十五番札所として、薬師巡り巡拝も盛んになり、 毎年2月8日の例祭には薬師堂内で近隣の念仏講中による和講も大正時代初期まで盛大に行われていました。
明治29年(1896年)当時光福院兼住(上島村延命寺十六世))杉蓮三和尚より積志村半田実相寺住職舘燈外師が引継ぎ、 引佐郡細江町より白華寺(開山海岩和尚))移し黄檗宗に改宗いたしました。 舘燈外師も兼住寺院を保持していました。
昭和年代には京都より、松居弘倫師(後に盛岡市大慈寺住職)を迎え、 現在は弟子の松居信善が住職を務めます。
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本堂
本堂内に安置され ている薬師如来は、江戸時代より”眼病にご利益がある”とされ、今でも多くの参拝者が来ます。また、「江馬加賀守平時成公」が眼病平癒を祈願したとも伝えられています。
各天井(ごうてんじょう)と眼病平癒祈願
「格天井(ごうてんじょう)」とは、太い角材を井げた状に組んで正方形をつくり、その上に板などを張ったりはめ込んだりした天井のことです。白華寺の格天井には美しい花や鳥の天井絵が描かれていて美しいです。
日本の他、中国や朝鮮などで見られ、寺院や神社、城など、主に格式の高い建物に古くから用いられています。中でも二条城などが有名です。
「め」と書かれた布に5円玉を縫い付けたものが掲げられていたので、きっと眼病平癒の御祈祷に使われるのではないかな?と思っています。写真はまだ何もされていない原布のようです。
放生池の『金運招福弁財天』
放生池に祀られている『金運招福弁財天』では、やっぱり世界平和とジャンボ宝くじが当たりますように!と欲深いお願いをしてしまいました。反省です。
お子様達が事故に遭わないようにと大きく「境内ですので遊ばないで」と書かれた看板が出ています。これからの夏休み、ご注意ください。
鎮魂碑
1981年(昭和56年)大東亜戦陣没者61柱の英霊供養のため建立された『大東亜戦陣没勇士之墓所』です。階段を登ってすぐ左側にあります。
赤池薬師杉
境内には、樹齢推定600年で1977年(昭和52年)浜松市保存樹木指定名木となった『赤池薬師杉』がそびえています。
卯地蔵
かわいらしい赤い帽子をかぶったお地蔵さん。漢字で「卯地蔵」と書いてあるのでどうしてかしら?とよ~く見ると、お地蔵さんの左腕の下に、かわいらしいうさぎさんがちょこんと何かを抱えていました。うさぎ年生まれの私、何かしらのご縁を感じちゃいます。
龍女菩薩と六地蔵
記事の終わり近くの『赤蛇伝説』(白華寺に伝わる伝説)にあるように、坂上田村麻呂の子どもを身ごもった女人、けっきょく赤蛇だったのです。
この『白華寺』にはその子供、つまりは俊光将軍が産湯を使ったと伝えられている『赤池』が境内にあるのですから、きっとこの『龍女菩薩』は母親の赤蛇なのかもしれません。古来から蛇=龍ってことみたいですから。
本堂裏にある階段を登ったところに石蹟があります。こちらは江馬加賀守平時成公のお墓です。
江馬加賀守平時成公之墓
曳馬城主飯尾連龍(いのおつらたつ)の家臣、江馬加賀守平時成公は、1568年(永禄11年)戊辰12月15日遠州曳馬城で討死されました。
今川氏真が三河吉田へ出陣した際、江間時成は今川氏に従う飯尾連龍に従っていたのですが、この時に連龍に松平家康と結ぶよう諫言、自ら家康の使者となって岡崎城まで赴いたのがこの時成です。
連龍が永禄8年(1565年)に誘殺されてしまい、その後連龍の遺命により、時成は従弟の江馬泰顕と共に松平氏こと徳川氏への恭順を貫いていたのです。ところが、家康を曳馬城に入場させようとした時成は、今川氏に調略された泰顕に殺されてしまいます。
夫の曳馬城主である飯尾連龍亡きあと、女城主として「曳馬城」を守り、果敢に戦った女性が「お田鶴(おたづ)」で、椿姫とも呼ばれるお方です。家康公の正室である築山御前が、観音堂の近くに椿を植え弔い、やがて『椿姫観音』と呼ばれるようになったのは、また別のお話です。
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史跡 江馬殿松
初代の『江間殿の松』は、1441年(嘉吉元年)薬師堂再建記念に「御手植の松」として植樹さらたようです。その後、枯れたり松くい虫にやられ現在の『江間殿の松』は4代目です。
史跡江馬殿松
初代 嘉吉元年(一四四一)
地方管領江馬氏の霊跡として薬師堂再建記念に「御手植の松」を江馬殿の松と 称す 樹令不詳
二代 永禄十一年十二月十五日(一五六八)
江馬加賀守平時成遠州曳馬城討死 此の地に埋葬印として松を植える。 天明五年(一七八五)老松風雨のの枯死 樹令二百十七年
三代 明治四十四年七月九日(一九一一)
江馬家の子孫江馬錦之助時成公の墓を 建立記念に松を植樹す
昭和五十七年一月松喰虫被害のたの伐採す 樹令七二年
四代 昭和五十七年一月十七日(一九八二)現在の松植樹す
赤池山白華寺
昭和五十八年十二月吉日建之 十一世松居信善
(『江馬殿松前』の案内板より)
浜松での数少ない『黄檗宗』の寺院
『白華寺』は地域では数少ない黄檗宗の寺院ということですが、正直あまり聞きなれない宗教でした。そこで、浜松地域での黄檗宗について少し調べてみました。
江戸時代初めに中国からもたらされた新たな禅宗(黄檗宗)寺院が教線を浜松市域南部に広げた理由は、寛文元年(1661)、京都の宇治に黄檗宗の本山となる黄檗山萬福寺を建立したのは隠元や独湛です。
この独湛の教えに帰依した人物が、旗本で金指(かなさし/浜名区引佐町)近藤家の近藤貞用(さだもち)。貞用は駿府城の徳川家康に御目見えし、席上で家康の11男徳川頼宣に仕えるようにいわれ、頼宣に仕えた人物として知られます。
貞用が独湛を招き、寛文4年(1664)に当地域で最初の黄檗宗寺院となる初山宝林寺を浜名区細江町に建立しているのがこの地域での黄檗宗の始まりなのかなと思います。
さらに、独湛の弟子の石窗(せきそう)が天神町の出身ということもあってか、独湛を勧請開山として、中央区天神町に延宝6年(1676)に大雄庵(だいおうあん/現大雄寺(だいおうじ)を創建、さらに浜名区平口の不動寺など、他宗派の寺院を改宗・再興するなどして市内に同宗の寺院を広げたことが大きかったのでしょう。
「浜松での黄檗宗の広がり」という資料を浜松市のHP?で見つけたので貼っておきます。
浜松での黄檗宗の広がり
市域南部では、江戸時代初めに中国からもたらされた新たな禅宗(黄檗宗)寺院が教線を広げたことが特筆される。
承応3年(1654)、中国僧の隠元(いんげん)が弟子の独湛(どくたん)らをともなって渡日した。隠元らは、江戸時代の宗門人別制度のなかで硬直しつつあった日本の仏教界に新たな刺激を与え、また書画や詩文にも優れていた。寛文元年(1661)、隠元や独湛は京都の宇治に黄檗宗の本山となる黄檗山萬福寺を建立している。
独湛の教えに帰依した人物が、旗本で金指(かなさし/浜名区引佐町)近藤家の近藤貞用(さだもち)であった。貞用は、独湛を招き、寛文4年(1664)に当地域で最初の黄檗宗寺院となる初山宝林寺(しょさんほうりんじ/浜名区細江町)を建立している。
さらに独湛を勧請開山として、その弟子の石窗(せきそう/窓)が延宝6年(1676)に大雄庵(だいおうあん/中央区天神町/現大雄寺(だいおうじ)を創建するなど市内に同宗の寺院を広げた。石窗は天神町の出身だという。
また、平口(浜名区)の不動寺など、他宗派の寺院を改宗・再興するなどして当地における黄檗宗寺院が増加することとなった。
白華寺(中央区上島七丁目)は、明治維新後に、五日市場(浜名区細江町)から光福院跡地(現在地)に移転している。
泉涌寺(せんにゅうじ)京都府出身の法源(ほうげん)は諸師を経て独湛に師事し、宝永元年(1704)には宝林寺の住職となった。
近藤家から舟岡山(中央区半田町)の領地を寄進され、正徳3年(1713)には大智寺(廃寺)を創設している。舟岡山は削平されたが、南端に法源禅師の髪爪塔(はつそうとう)が残されている。
独湛は、18 年間を浜松で過ごし、のちに京都に戻って本山・萬福寺の第4代住職に就いた。
引用元:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/133742/03dai1shou_1.pdf
赤蛇伝説(白華寺に伝わる伝説)
平安初期、遠江国岩田の海に赤蛇が棲みつき渡海する旅人に危害を加えていました。
桓武天皇の御代・延暦13年(794年)征夷大将軍 坂上田村麻呂が東征の途中これを聞き、住民を救う為、小笠郡堀之内(現・菊川市)の潮海寺より薬師如来を移し新たに薬師堂を建て渡海の安全を祈願しました。
37日間の祈祷が終わった夜、身の回りの世話をさせて欲しいと、ひとりの女人が現れました。月日が流れ、女人は身籠りました。
女人の願い通り産屋を建て決して見ないよう約束をした田村麻呂でしたが、3日経っても静かなままなので心配になり、隙間から覗いてしまいました。
すると女人は赤蛇に姿を変え、赤子を舐めていたので思わず声を上げてしまいました。
赤蛇はこの声に驚き、女人の姿に戻りました。
そして「私はこの岩田に棲む赤蛇なり。仏力により我が身を悔い改め、以後は人々の航行往来の安全を守護する。私の形見として、この子を将軍にお預けする故、大切にして欲しい」そう言い残し二俣鹿島の椎ヶ脇の淵に身を沈めました。
有玉の俊光将軍のお墓?
余談ですが、『俊光将軍社』がある『有玉神社』付近は有玉という地名です。この有玉とは、俊光将軍が舟岡山から天竜川に向かって投げた潮干の珠が見つかった場所が由来と伝わります。玉の威力で水が退き陸化したとか、この玉が『有玉神社』に祀られているとも伝わるようです。
また、俊光将軍のお墓と思われる『旧俊光将軍社跡』が『有玉神社』から西へ数分の東名高速道路[三方原スマートIC]付近のホテル脇[中央区区有玉西町285]にあります。現在は『有玉神社』に合祀されているようです。
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坂上田村麻呂とは?
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、征夷大将軍として蝦夷(えみし/現在の東北地方)を討伐した人物です。
奈良時代末期から平安時代初期の人物で、武門貴族でした。 今でいうキャリア武官で、桓武天皇の蝦夷討伐で征夷大将軍として陣頭指揮をとりました。
50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が行っていた事業のひとつである『蝦夷(えみし/えぞ)討伐』において、その優れた武勇を存分に発揮し 791年(延暦10年)に「征東副使」(せいとうふくし)に任ぜられています。東北の軍政府長官である鎮守府将軍も兼任し、東北地方全域の行政を指揮する立場でもありました。
801年(延暦20年)に起こった蝦夷の族長「阿弖流為」(あてるい)との戦いは有名で、ついに蝦夷征討に成功するのです。
802年(延暦21年)に阿弖流為と母礼が降伏し、田村麻呂によって『胆沢城』(岩手県奥州市水沢佐倉河渋田)が造営されると、804年(延暦23年)には胆沢郡が建てられ、胆沢の地は律令国家に取り込まれることになりました。
『胆沢城』は、 城といっても、戦国時代のような石垣や外堀を回し、敵の攻撃から身を護る堅固な要塞ではなく、胆沢川と北上川の合流地点にほど近い平坦な土地に「 築地(ついじ) 」と呼ばれる塀を回した街区のようなものでした。
死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となります。
現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出されました。
以後、将軍の職に就いて出征する時はまず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈るとされたといいます。現在、京都市山科区の西野山古墓が田村麻呂の墓所として推定されています。
812年(弘仁3年)正月、嵯峨天皇の勅令によって、鈴鹿峠の二子の峰に田村麻呂を祀る祭壇が設けられ、822年5月2日(弘仁13年4月8日)には土山の倭姫命を祀る高座大明神の傍らにも田村麻呂を祀る一社を建て、併せて高座田村大明神(現在の田村神社)と称しました。
『公卿補任』には「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身として評価されたことから伝説上の人物・坂上田村麻呂として語り継がれています。
平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、学問の菅原道真と武芸の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされました。
阿弖流為って?
平安時代初期、現在の岩手県南部を拠点として、朝廷の侵攻に激しく抵抗した蝦夷(えみし)のリーダーです。阿弖流為は、征夷大将軍坂上田村麻呂に敗れて降伏し、802年(延暦21年)に河内国(大阪)で処刑されました。
清水寺の建立
田村麻呂は「清水の舞台」で有名な京都府京都市東山区にある清水寺を建立した事でも有名です。建立の由来は異説も多くあり、内容は必ずしも同一ではありません。
清水寺の創建は奈良時代末期の778年とされます。『清水寺縁起』によると、修業僧の賢心(後の延鎮上人)が夢のお告げにより山城国の音羽山(今の清水寺の地)で、金色の清流を発見した。その源を辿っていくと、そこで長年、千手観音を念じつつ滝修業を行っていた行叡居士と出会います。
行叡居士は賢心に、観音力を込めたという霊木を授け、「長い年月あなたがくるのを待っていた。この霊木で千手観音像を彫り、この観音霊地を守ってくれ」と言い残します。
「行叡居士こそ、観音様の化身に違いない」と悟った賢心は、霊木で千手観音像を刻み、行叡の草庵に安置し、観音霊場を守ったのが清水寺の草創とされます。
賢心が音羽山中に観音霊場を開いた2年後の780年のある日、賢心と坂上田村麻呂が運命的な出会いを果たします。
この日、田村麻呂は妻の高子の病気平癒の薬となる鹿の生き血を求めて、鹿を捕えるために音羽山中で狩りを行っていました。音羽の滝で修業中であった賢心は、田村麻呂に対し、観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いたのです。
賢心の教えに深い感銘を受けた田村麻呂は観音に帰依します。そして、後日、十一面千手観音菩薩を本尊とする堂宇を寄進し、音羽の滝の清らかさから、その寺を清水寺と名付けたとされます。
ただ、建立の時期について780年(宝亀11年)とするもの、798年(延暦17年)とするものがあるようです。
京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【後編】 | 京都府 - 歴史・文化 観光・地域 - Japaaan
最後に
今回の遠江の神社・仏閣は黄檗宗の『赤池山白華寺』でした。あまり聞き覚えのない黄檗宗のお寺ということで、興味を持って訪れました。そしたら、なんと薬師如来様が御本尊で眼病に御利益があるというではありませんか。
袋井の『油山寺』も眼病平癒に霊験あらたかとのことで、けっこう広い境内を歩き回ってお参りした印象ですが、こちらの『白華寺』はそれほど歩くことなくお参りできるので、その後も何度かお参りにでかけています。
さらに、『有玉神社』『椎が脇神社』と坂上田村麻呂の赤蛇伝説とつながっていたとは驚きです。
俊光将軍のお墓と思われる『旧俊光将軍社跡』も白華寺と近いと知ったので、付近を歩いて探したのですが残念ながら見つからず、グーグルアースで見たらしっかりと存在しているようなので、少し暑さが収まったら出かけたいと思っています。あっ!そうそう、菊川の『潮海寺』にもお参りしたいですね。
すでに、伝説で赤蛇が身を沈めた椎が脇の『椎が脇神社』は訪ねました。本当に自然あふれる素敵な場所ということで、俊光将軍を産んだ母である赤蛇もゆっくり休めているのではないでしょうか。そのうち記事にしたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。