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現在も地名に残る家康にまつわる小豆餅、銭取の逸話。やっと本物の小豆餅食ったどー

🕖2023/04/07    🔄2024/03/18

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

二十四節気の一つで第5番目にあたる「清明」も2日前でした。草や木、水などが清く明らかであり東南風の心地よい季節という意味で「清明」とされます。

 

「清浄明潔」の略でもあり、すべてのものが清々しく明るく美しい頃とされ、さまざまな花が咲き乱れ「お花見」にはもってこいのシーズン到来です。

 

「お花見」って感じでわざわざ遠くまで出かけなくても、そのへんを散歩するだけで桜はもちろん、道端でたくましく咲くたんぽぽや、川畔の浜大根の白い花も清々しく心を元気にしてくれます。

 

歴史好きな方なら誰もがご存知!若き徳川家康と戦国最強武田信玄の戦い『三方ヶ原の戦い』に関して地元に残されている伝承は数知れず、まんじゅうに栗、ソーメン、山椒、梅など、ちゃんと調べればまだまだあるでしょう。

 

そんなわけで、「お花見」をと散歩に出かければ、知らぬ間に家康ゆかりの寺や神社、伝承がのこされている場所にたどり着いていることもしばしばあります。

 

今回、お花見を兼ねてでかけたのは『小豆餅』と『銭取』、どちらも地名に残された家康公の逸話が残されています。この辺りは現在の浜松市中区葵町になり、「小豆餅」を販売している『御菓子処あおい』もあり、小豆餅を購入しいただくこともできます。

 

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浜松市中区葵東の『御菓子処あおい』さんの店頭に描かれている「銭取」

 

 

小豆餅と銭取

 

三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れた徳川家康は、命からがら浜松城を目指し敗走します。武田の追っ手が迫る中、少し休憩をと小さな茶店で「小豆餅」を食べました。この辺りが『小豆餅』という地名です。

 

「こりゃあおいしい」と3っ目の小豆餅を口にした時、またも武田の追っ手が迫り来たため、慌てて小豆餅の代金を支払わずに逃げ出します。

 

「食い逃げじゃ~代金を払ってくだされ、お侍さま」と茶店のおばあさんも慌てて家康を追いかけます。やっとのことで追いついたおばあさんは無事に代金を取ることができた場所を『銭取』といいます。

 

 

【小豆餅】場所:浜松市中区

 

《アクセス》

 

電車・バス:浜松駅からバスで約22分[小豆餅南]バス停下車

車:東名高速道路[浜松西IC]から約15分

駐車場:なし

 

まずは逸話から始めましょう。

 

徳川家康の軍は、三方ヶ原の合戦で武田信玄に敗れてしまいました。家康は命からがら浜松城を目指します。信玄軍の追っ手が間近に迫る中での出来事です。

三方原から浜松城まではけっこうな距離があるためお腹が空いた家康が、少し休もうと立ち止まり辺りを見回すと、小さな茶店が目に入りました。

早速お店にいくとおいしそうな「小豆餅」を売っていたので、お店のおばあさんに「小豆餅を頼む」と声を掛けます。

おばあさんは鎧兜のお侍さんを見て、ビックリ!「お口に合いますやら」と自慢の「小豆餅」とお茶を出しました。

家康は、あっという間に餅を食べ終えると、あまりのおいしさに、2つ目を頼み、3つ目も食べ始めたところに、武田の追っ手が近づいている騒がしい声が聞こえてきます。

敵の襲来に慌てた家康は、餅をくわえたまま代金も払わずに慌てて駆け出します。そんな家康を見た店のおばあさんも大慌てです。

自慢の小豆餅を3つも食い逃げされてはたまりません。武田の追っ手のことなど知らないおばあさんは「お侍さま、お待ちください。お代をお忘れです」と追い続けました。

 

この時以来、家康が小豆餅を食べた茶店辺りの地名は「小豆餅」、やっと追いついたおばあさんが料金を回収できた場所の地名は「銭取」とされ、今も地名として残っています。

 

大正時代に浜松の中心部から三方原、金指、気賀、井伊谷を経て、奥山(北区引佐町)へと続く遠州鉄道奥山線(開業当時は浜松軽便鉄道)に「あずきもち」や、「銭取駅」という駅名があったといいます。

 

遠州鉄道奥山線は線路の幅が狭くかわいらしく小さな車両は、『軽便(けいべん)』と呼ばれ親しまれたそうで現在は「広沢隧道」であったトンネルを「亀山トンネル」として歩行者・自転車用として利用されています。

 

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左が軽便鉄道が通っていた広沢隧道現在は亀山トンネル、右が案内板

 

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左が風情のある広沢隧道、右は付近の公園に置かれた動輪

 

「銭取駅」とは、浜松市住吉町(開業時は旧・浜名郡曳馬町高林/現在の浜松市中区住吉3丁目)にあった遠州鉄道奥山線の駅(廃駅)で、奥山線の敗戦に伴い1964年(昭和39年)11月1日に廃駅となりました。

 

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家康公ゆかりの地浜松での『三方ヶ原の合戦』はいったいどこが決戦地なの? - sannigoのアラ還日記

 

浜松銘菓『小豆餅』

 

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現在『御菓子処あおい』で製造されている『小豆餅』

 

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さすがの『御菓子処あおい』です。三つ葉葵の紋が飾られています。

 

浜松銘菓「小豆餅」は全国菓子大博覧会大臣賞を受賞している、小豆・黒豆・きな粉・もろこし粉・酵素を使い、逸話に出てくる「小豆餅」を大福で再現したものです。味は甘すぎないあんこでいくつでも食べられそうです。

 

なお、現在も中区葵東1丁目6-7で「小豆餅」を販売している『御菓子処あおい』さんは、今は浜松市東区有玉北町のお店が主に製造、販売しているようです。

 

もちろんドラマ館やメイワン、遠鉄、イオンなどのお店でも普段から「小豆餅」を買うことができます。が、私が葵東のお店で購入したときは、愛想の良いおばあさんが親切にいろいろな話をしてくださり丁寧に対応してくれました。もし訪ねても留守だったらごめんなさい。

 

『御菓子処あおい』さんのすぐ北東(歩いて2分くらい)には小豆餅神社があります。せっかくなのでお参りさせていただきました。

 

小豆餅神社

 

地域の根ざした氏神様です。他に小豆餅神社に関しての情報が全く見付けられません。何かご存じの方がいらっしゃったらいいのですが。

 

場所:浜松市中区小豆餅2丁目23

電車・バス:浜松駅からバスで約22分[小豆餅南]バス停下車

車:東名高速道路[浜松西IC]から約15分

駐車場:なし

 

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小豆餅神社の鳥居と扁額

 

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小豆餅神社前の案内板

 

神社前にある公民館?にあった案内板には以下のように書かれています。

 

松林と萩やつつじ、それにすすきなどの広大な原野に武田・徳川の両軍が交戦した三方ヶ原の戦い。力戦激闘したが徳川方に利なく急いで浜松城へ敗走の途中、道端で老婆が小豆餅を売っていたので家康はこれを口にしたが、武田軍の急迫接近の報にあわてて代金を払わずに走り去った。老婆は後を追い銭を取って帰ったと伝えている。この地を小豆餅という。大正時代に軽便鉄道が開通し、あずきもちの駅名があった。

 

小豆餅神社から約23分南方向へ歩くと銭取バス停があります。この辺りが逸話から残された『銭取』という地名になります。

 

銭取まんじゅう跡標柱

 

場所:浜松市中区泉1丁目5-62

 

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左が自販機のすぐ近くにある「銭取まんじゅう跡」の碑、右が『銭取』のバス停

 

銭取まんじゅう跡標柱とは、銭取まんじゅうというお菓子を売っていたお店が昭和35年頃まであったということから、そのお店の跡地を示してると思われます。

 

道路の脇にある標柱なので、歩いてご覧になることは可能ですが、車では駐車場もないし、交通量も多く道の脇に停めることもできません。のんびり歩きながら見つけるのが良いかもしれません。小豆餅でもほおばりながら(笑)

 

銭取のバス停から北へ向かって歩いて約7分のところに、『葵東照宮』があります。お時間があれば立ち寄ってみてはいかがでしょう。

 

葵東照宮

 

 

場所:浜松市中区葵東1丁目15-2

 

《アクセス》


電車・バス:遠鉄[上島]駅から徒歩約40分

      遠鉄[銭取]バス停から歩いて約7分

車:東名高速道路[浜松西IC]から約10分

 

明治維新後に三方原の地に入植した旧幕臣たちが家康公をご祭神として祀るべく三方原追分付近に『東照宮権現社』を創建したのが始まりだそうです。

 

しかし、昭和43年浜松市によって交番と消防署が建設されることになり、境内地を市に提供し御神体は三方原神社に合祀され、社殿・鳥居・手水鉢は萩の原神社に移築されました。

 

昭和49年10月20日、葵町民の要望により、現在地に社殿を建立し『葵東照宮』を創建、氏神として『三方原神社』から東照大権現(徳川家康公)を遷座された神社が『葵東照宮』です。

 

口コミされた方の情報によると、旧浜松市内で東照大権現を祀る神社は、他に元城町の東照宮、三方原神社、松尾神社、亀山神社、八百神社等があるそうです。

 

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そして、「権現様」や先ほど登場した「葵東照宮」の案内文で”社殿・鳥居・手水鉢が移築された”という『萩の原神社』もお参りさせていただきました。

 

萩の原神社

 

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『萩の原神社』の新しい拝殿と、鳥居

 

御祭神は天照大神で、この地に50cmほどの萩の木が原生していたため、萩の原神社と名付けられたそうです。(境内案内板より)

 

 

場所:浜松市中区葵西6丁目18-18

 

《アクセス》


電車・バス:JR浜松駅より【せいれい病院 泉高丘】線→約45分→[萩の原神社]バス停下車230mほど
車:東名高速道路[浜松西IC]から約10分
駐車場:ありません

 

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神社の入口がわかりにくいですがこの石碑が目印。丁寧な説明が書かれた案内板


1954年(昭和29年)10月、伊勢神宮よりご神体をいただき、1955年(昭和30年)遠江分岐稲荷神社が建て替えするにあたり、古い屋代を譲り受けますが、2年後にこれは崩壊します。

 

1957年(昭和32年)萩の原開拓農業組合が協力し、新たな社殿を再建し大祭を執り行っています。

 

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社殿はこの広場の奥にあります

 

社殿は広場の奥にあり、春先は桜が咲き乱れ青いシートを敷いての『お花見』も楽しみの一つのようで、先日通りかかったときも3年ほど見かけなかったお花見宴会が盛り上がっていました。

 

鉄棒やブランコ、滑り台などの子供用の遊具もあるため、普段から公園として訪れる人も多いようです。

 

【萩の原神社の生い立ち】

1 葵町の誕生

この辺の土地には、明治のはじめ徳川の幕臣が入植し、大正末期飛行 第7連隊の設立などがあって、昭和10年10月曳馬村1本杉並びに上島地区の一部を含めて葵町が誕生した。町名の由来は、徳川家康の「三つ 葉葵」紋にちなんだものである。

2 当地での開拓

大東亜戦争終結に伴い、極度に逼迫した食糧事情の中にあって戦災者、 復員軍人、引揚者など開拓の情熱に燃え当地域に移転し定住する者が年々増加していた。

この付近一帯は雑木、笹、萩等が原生する強酸性の痩せ地であった。 その上、常に三方原地域からの浸水を蒙るという最悪の土地で何年かは皆無に近い収穫しか得られない状況であった。開拓者の中には諦めて土地を手放して離れて行った人も沢山いた。そんな中にあって、開墾の情熱に 燃え我慢して頑張って開墾を進めた人達約40余名で日進開拓組合を結成し、互いに相助け相励まして幾多の困難辛苦を克服してきた。

3 氏神様について

当時この近辺の氏神様は、追分(旧追分交番のあった当たり)にあった権現様であった。初生、三方原、葵西、葵東、高丘等の氏神様で、夏祭り、秋 祭り等で舞台を作り演劇、映画等を行い出店も沢山出ていた。

しかし、開拓者の中から地元に神社奉祀の念を抱き、社殿を建て天照大神の御分霊を奉迎しようという気運が高まった。

4 昭和29年10月 伊勢神宮より御神体(分霊)を 迎える

日進開拓組合の代表2名が、伊勢神宮を参拝し御神体を頂いてくる。

5 萩の原神社の名前の由来

当地には、約50センチくらいの萩の木が沢山原生していたため、 「萩の原」がよいのではないかと村井正一氏(現豊岡町にて農家)からの 発案で、萩の原神社と命名された。

6 昭和30年遠江分器稲荷神社から古い屋代を頂く。

遠江分器稲荷神社(現浜松市中区田町北田町氏子総代会)にて建替え するという情報を八幡宮宮司?から得て、交渉して頂くことになった。 (屋代と言っても、屋根と四本柱くらいのものであった。) しかし、昭和32年台風で崩壊してしまう。

7 昭和32年10月5日 萩の原神社大祭

改めて萩の原開拓農業協同組合がみんな協力して、新たな神社を再建 して大祭を行う。同時に法人として申請をする。

8 昭和32年 婦人会により神社周辺へ桜の苗木を植える。

9 萩の原公民館から萩の原社務所へ名称変更

多目的使用のため萩の原神社の横へ公民館を建てたが、お宮の隣でもあり神社として自由に使用できるように、萩の原社務所と名称を変更した。

10 昭和40年 第二次萩の原神社落成記念

11 昭和44年 追分のお宮「権現様」の社殿、鳥居、 手洗い鉢を払い受ける。

権現様のあった土地の持ち主が、県に売り渡したことから神社は解体されることになり、御神体は葵東照宮(葵東一丁目)へ移され、社殿、鳥 居、手洗い鉢を萩の原神社へ払い移された。

権現様のあった場所は、旧追分交番があった南側(葵東二丁目)であり、 今は「権現様跡」の標札が立てられている。

12 萩の原開拓記念之碑について

昭和54年11月萩の原開拓として入植し辛苦を共にした同志により萩の原神社境内に記念碑を建てる。

13 昭和62年5月20日宗教法人萩の原神社を設立

14 平成6年 萩の原神社建替え計画始まる。

氏子総代会長より町内の皆様方へ新築趣意書を配布する。

15 平成12年8月28日 新萩の原神社完成

前記の萩の原神社新築趣意書のとおり、老朽化し、雨漏り等があり維持管理が大変な神社を新しく新築するため、数年前から建設準備委員会を立ち上げ、準備を進め、町内の皆様のご協力を得て後世に残る新たな神社の建設工事に着手し、漸く平成12年8月完成する。

(案内板より)

 

案内文の中にある「権現様跡」の標札ですが、未だ見つけることができない「家康公ゆかりの地」ということで必死で探しています。確かに葵町にあるはずなのですが、どなたかご覧になったことがありませんでしょうか?

 

2023/08/19追記

『ラフレ初生』さん(旧アピタ初生)を南へ歩いていて、ついに見つけました。まさに「権現様跡」と書かれている案内板です。ところが、なんと石碑がありませんでした。

 

権現様跡(お宮跡)

 

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約4か月後にようやく見つけた案内板!ですが、石碑がなかった(笑)

 

場所:浜松市中区葵東2丁目12

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR浜松駅より遠鉄バスで30分 奥山行き15番線[追分]下車

車:東名高速道路[浜松西IC]から約15分

駐車場:ありません

 

現地の案内板には以下のように書かれているそうです。

 

昔ここに権現様と呼ばれるお宮があった。明治のはじめ、この地に入植した家臣たちが徳川家康を祭神として祀ったものである。

 

境内には名所の政治家で当時静岡藩知事であった徳川家達お手植えの松が、昭和45年(1970年)設置された交番・消防派出所が建設されるまであった。

 

現在ご神体は葵東照宮(葵東1丁目)へ、社殿・鳥居・手洗い鉢は「萩の原神社」(葵町西)へ移され祀られている。

 

とのことです。また、天気の良い日にウォーキングで出かけて見付けられればいいなと思っていたのですが、約4か月後についに案内板は見つけました!が・・・。なんと!石碑はなかったのでした。(笑)

 

最後に

 

今回の徳川家康ゆかりの浜松からは、今も「小豆餅」や「銭取」の地名が残る、家康の最大の負け戦といわれる『三方ヶ原の戦い』の敗走中のエピソードからの逸話をご紹介しました。

 

おいしい『小豆餅』をほおばりながら、家康ゆかりのありそうでなさそうな『小豆餅神社』や『葵東照宮』をお参りして清らかな気分に浸るのもいいものです。

 

『銭取まんじゅう跡標柱』を見つけて、今後の大河ドラマ『どうする家康』に登場するかもしれない、柴田理恵さんが演じるまんじゅうを売るおばあさんを想像してみてください。

 

最初に登場した小豆餅を売っている『あおい』さんの店頭にある漫画のように家康を追いかけるのでしょうか?楽しみです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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