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遠江の天白神社巡り⑨⑩にほど近い『白羽神社』の御祭神は「長白羽命」

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

遠江の天白神社巡り⑨で登場した『天白神社(磐田市堀之内)、さらに⑩に登場した『天白神社(磐田市小島)』の鎮座位置から約3kmの距離の場所に今回参拝させていただいた『白羽神社』が鎮座しています。

 

『白羽神社』の御祭神は長白羽命(ながしろわのみこと/別名天白羽神)と倭健命(やまとたけるのみこと)他24柱とあります。

 

ウイキペディアによれば”天白信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった”と書かれています。

 

仮に由緒書きにあるように、文武天皇四年(西暦700年/飛鳥時代)にはこちらの『白羽神社』があり長白羽命を祀っていたのであれば、この辺りには飛鳥時代から天白信仰の起源であるといわれる天ノ白羽を祀る信仰があったと考えることもできるのではないのでしょうか?

 

こちらの神社の名前は『白羽神社』で天白神社というわけではないのに、上記のような理由でとても気になる神社だったというわけです。少しでも早く出かけたかったのですが、少し体調を崩してしまい、2週ほどロスしてしまったため遅くなりました。

 

結論から先に言いましょう。残念ですが「天白信仰」との関係はないようです。というのも境内由緒書きにあるように『白羽神社』の鎮座地は掛塚湊の近くで「白羽官牧(馬)」の地といいます。

 

さらに創建年代不明となっていますが、一説には700年(文武天皇4年)創建で、静岡県内の『白羽神社』の中で最も古く、創建時の本来の御祭神は倭建命(やまとたける)とのこと、倭建命といえば白鳥伝説が有名です。しかも社伝によると『白羽神社』の社号「白羽」は地名ではなく、「倭建命の化身である白鳥の羽根」を意味するといいます。

 

注目の「長白羽命」は江戸期以降に加えられた御祭神とのことで、天白信仰との関わりは見つけられませんでしたが、こちらの『白羽神社』の広々した境内には児童公園のように遊具もそろっていて、地元の皆さんの憩いの場としても親しまれているように感じました。

 

実はこちらの『白羽神社』御祭神のヤマトタケルよりも徳川家康との関わりの方が強かったかも⁉と思われる伝説が残されています。

 

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磐田市白羽に鎮座する『白羽神社』

 

 

白羽神社

 

 

 

鎮座地:静岡県磐田市白羽438

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[豊田町駅]から徒歩約54分、[白羽バス停]から徒歩約3分
車:東名高速道路「浜松IC」から約20分(約8.2km)
駐車場:神社西の入口から入ると駐車できるスペースがあります
御朱印:不明

 

御由緒

 

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『白羽神社』境内と境内内の由緒書き

 

白羽神社 由緒

磐田郡竜洋町白羽四三八番地
長白羽命 倭健命 他二十四柱
創立年代は不明
文武天皇四年三月此の地を牧地として牛馬を放養す牧官筑紫大伴某本社に奉仕せり
應永年間山下与三郎政忠、信州より移住し牧官大伴の遺跡を嗣ぎ奉仕す
元亀年中武田軍の兵火にかかり旧宝物を焼く
慶長十三年神殿再建のことあり安政元年地震に幣殿及び拝殿倒壊し慶應元年
造営せり、徳川氏朱印三十二石の寄進あり
明治六年三月十五日神饌幣料供進指定社となる
明治四十二年三月十一日境内社若宮社 八幡神社 金山神社 吾妻神社の四社を合祀せり
昭和二十二年二月一日 法人令により神社設立 登記済
昭和二十四年三月三十一日
国有地譲与の許可
昭和二十六年二月七日 登記済
昭和三十五年十月一日
八等級 旧郷社
例祭日 十月第二日曜日

(拝殿内由緒書きより)

 

掛塚湊の近くのこの地は「白羽官牧(馬)」の地と呼ばれます。文武天皇4年(700年)、この地を牧地として牛馬を放養し、牧官筑紫大伴某がこの社に奉仕していました。

應永年間(1394〜1428年)山下与三郎政忠が信州から移住して、牧官大伴の跡を継いで奉仕するようになります。

元亀年中(1570〜1573年)武田軍の兵火にかかり旧宝物が焼失しました。

慶長13年(1608年)神殿が再建されましたが、安政元年(1854年)の地震で弊殿、拝殿が倒壊し、慶応元年に造営されました。

明治6年(1873年)神饌幣料供進指定社となり、明治42年(1909年)境内社の若宮社、八幡神社、金山神社、吾妻神社の四社を合祀しました。
 
白羽神社の読みですが、静岡県神社庁には「しらはじんじゃ」と載っていますが、地元では「しろわじんじゃ」と呼び、地名の白羽も「しろわ」と読みます。昔は「志留波」と書いて「しるわ」と読んだそうです。

 

御祭神

 

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鳥居と広い境内の遊具

 

長白羽命(ながしらはのかみ)(別名天白羽神)

倭健命(やまとたけるのみこと)

ほか24柱

 

と、由緒書きにはありますが、創立時の本来の御祭神は倭建命で、長白羽命は江戸期以降に加えられた御祭神とのことです。

 

倭建命=日本武尊といえば白鳥伝説が有名で、社名の白羽とは地名のことではなく、伝説の白鳥の羽根の意味だそうです。


境内社

 

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境内社の鳥居、境内社のお社

 

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境内社横にある謎の石塔、注連縄が張られ御神木と思われる大木

 

明治42年(1909年)境内社の若宮社、八幡神社、金山神社、吾妻神社の四社を合祀したとのこと。鳥居もあり、謎の石塔もあり大事にお祀りされている感じがします。

 

創立

 

創立は不詳ですが、文武天皇(689年〜707年)に、この地を集め牧地として牛馬を放養する牧官筑紫大律某が『白羽神社』に奉仕したと由緒書きにあります。

 

ご利益

 

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狛犬

 

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阿吽の狛犬

 

鳥居と手水舎

 

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鳥居と手水舎

 

拝殿と本殿

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拝殿と本殿

 

長白羽神(ながしらはのかみ)とは?

 

御祭神である「長白羽神」の別名は「天ノ白羽神(あめのしらはのかみ)」で、『古語拾遺』の天岩戸に登場する神で、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の同族神であるといいます。

 

思兼神(おもいかねのかみ)に命じられ、麻を育て青和幣(あおにぎて)を織ったといい、神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神とされ、白い衣類を白羽と呼んだのは長白羽神に由来するとされています。

 

神麻続機殿神社は三重県松阪市にある神社。元々は神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)と同じ場所に鎮座していましたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられているそうです。

 

いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿(機殿神社)と呼び、地元の人々からは「おみどの」と呼ばれ親しまれています。両機殿の所在地は旧飯野郡機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残していると聞きます。

 

先に記したように天白信仰を麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)由来とする説がありますが、こちらの『白羽神社』に関しては天白信仰とのゆかりは見つかりませんでした。

 

倭建命(ヤマトタケル)とは?

 

ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

( ヤマトタケル - Wikipedia より)

 

ヤマトタケルの東征

 

ヤマトタケルといえばまず思い出されるのは「草薙剣」では?

 

古事記によると、第12代景行天皇の息子であるヤマトタケルは父親に嫌われていたのか、西国の熊襲征伐を命じられ、南九州の熊曾建(くまそたける)や出雲の出雲建(いずもたける)を討つ西征をした後、くたくたの状態で休む間もなく今度は東国の蝦夷討伐を命じられます。

 

さすがのヤマトタケルも「ちっくしょー」と思ったのか、倭から伊勢に立ち寄って大神宮をお参りし、伊勢にいる叔母さんである倭比売命(やまとひめのみこと)に「天皇は私が死ねばよいと思っているのか、西国征伐が終わってようやく倭に帰ったのに、今度は東国平定を命じられた。」と泣いて嘆いたといいます。

 

そこで叔母さんが草薙剣と「火急の時はこの袋を開きなさい」と袋を持たせてくれます。そして、伊勢から尾張、駿河へと進む中、国造にだまされ沼の中にいるという荒々しい神を見るため野原に出かけたのです。

 

するとだました国造が野原に火をつけたため、迫りくる火を前に叔母さんからもらった袋を開け中身が火打石だと確認し、帯刀で草を刈り払い、火打石で火を打ち出し、燃え迫ってくる火に向って、こちらから草に火をつけて敵の方へ火勢を退かせました。

 

そして国造をやっつけて火をつけて焼いたといい、この話から焼津という地名がついたというのが有名な「草薙剣」の伝説です。

 

その後、相模走水―上総―常陸新冶―筑波―相模足柄―甲斐というコースで東国を征伐していったようですが、こちらの『白羽神社』近くの掛塚湊には立ち寄った話は残されていないみたいです。

 

『権現森(ごんげんもり)』という伝説

 

磐田には徳川家康との関わりを伝える『権現森(ごんげんもり)』という伝説が残されています。

 

武田信玄との軍にばったり出会ってしまった家康が隠れたのが、『白羽神社』の西に続くこんもりとした森で、「無事に逃れさせてください」と祈願したお宮が『白羽神社』だったというのです。結果、家康は武田軍から無事に逃げ帰ることができたと伝わります。

 

その後、ここの森は家康が隠れた森ということから『権現森』と呼ばれるようになったそうです。権現は家康が後に『東照宮大権現』と祭られたことによるとのこと。

第77話 権現森(磐田市)

 四百年の昔のことである。
 浜松城の徳川家康は、今の磐田市白羽(しろわ)を、数人の従者を連れて歩いていた。と、武田信玄の軍にぱったり出会った。
 『これはいけねい』
 家康は逃げて、近くの白羽神社の西に続く、こんもりとした森の中にかくれた。
 この白羽神社は、それより何百年か昔から、
『倭建命(やまとたけるのみこと)と、長白羽命(ながしろわのみこと)』
をまつる、古い社である。そしてこのあたりの海岸の松林では、牛馬を放牧していて、毎年その牛馬をこの白羽神社の神官が捕らえて、大和の朝廷に献上しているという、由緒ある所であった。
 家康はこのお宮に、『無事に遁れ(のがれ)させ給え』と、祈願していた。
 お陰で武田の軍は、家康を発見するに至らず、どこともなく立ち去ってしまった。
 その後ここの森を、家康のかくれた事から、『権現森』というのであった。
 家康のことは、後に、『東照宮大権現』と祭られたから、権現というのである。

(出典「家康伝説」)中遠昔ばなし 権現森(磐田市)

 

白羽神社のお神輿は磐田市指定文化財

 

竜洋地区の白羽にある白羽神社の大祭は、白羽神社からお仮宮へのお渡りの神事が行われ、その神幸行列に氏子が屋台を引いてお供をします。

 

白羽神社のお神輿は1881年(明治14年)頃、名古屋で製作されたもので、形は正方形で一般的な形式のお神輿ですが、磐田市内では古いお神輿の一つということで、磐田市指定文化財だそうです。

 

この行列には子どもたちがかつぐ「御座船(ござぶね)」や、「天狗(ぼこ)」、「おかめ」などが参加します。江戸時代後期に火事で祭礼道具が焼けてしまい、長い間神事が途絶えましたが、再び行われるようになり、それからは時代ごとに祭りの内容も変わってきているとか。現在は10月第2日曜日に行われているようです。

 

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最後に

 

今回お参りさせていただいた磐田市白羽に鎮座する『白羽神社』、御祭神が倭建命と長白羽命ということ。さらに、先日天白神社巡り⑨⑩でお参りさせていただいた『天白神社』と非常に近い場所に鎮座しているという理由から、もしかしたら1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなったという『天白信仰』とのつながりがあるのでは?という期待を込めて出かけたのです。

 

創立も文武天皇4年(700年)、この地を牧地として牛馬を放養し、牧官筑紫大伴某がこの社に奉仕していたいう記述もあり、実は飛鳥時代からあったんじゃないの?とか。けっきょく、創立時の御祭神は倭建命で、江戸時代に地域名から天白羽神を御祭神に加えたようで、残念ながら天白信仰との関わりは見つけられませんでした。

 

実は静岡県内にはあと2つ『白羽神社』があります。浜松市と御前崎市ですが、すでにどちらの神社も天白信仰とのつながりはなさそうだと感じています。もう少しじっくり調べてから記事にしたいと思っています。

 

⑨⑩の天白神社の鎮座地から少し東へ進むと明治時代から始まった別珍・コール天(コーデュロイ)などで知られる「福田(ふくで)織物」の産地があります。無理やりですが、天白信仰の起源を麻積氏の祖神天白羽神に求める説が有力だとしたら、織物でつながることはないでしょうか?

 

もしくは、『三遠式銅鐸』の分布から、弥生時代後期、機内から東の地域に銅鐸祭祀を広めようとした人々が関係しているとか・・・。銅鐸文化は誰が伝えた?とか・・・。素人が妄想するためのヒントが多くて、最近考えることが楽しすぎです。結果はちゃめちゃな記事になっていますがお許しください。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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