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Channel: sannigoのアラ還日記
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西遠、中遠、東遠と遠江に3社ある白羽神社、今回は浜松市中央区白羽町の白羽神社

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こんにちは sannigoです。いつもありがとうございます。

先回参詣させていただいて記事にアップした磐田の『白羽神社』と同じ名前ですが、今回は西遠の浜松市中央区白羽に鎮座する『白羽神社』です。

 

浜松市公式ページでは、浜松の白羽地名の起源について”「曳馬拾遺」は、白羽地名の起源について「しら浪のよるひる絶えず立つによりてこの名やあるらん、又相良の白羽、掛塚の白羽、一つ国に三つの白羽ある事いかなる故にや。三ヶ所とも白羽の命を祭れるなり」と述べている。”と書いています。

 

つまり、白羽という地名が相良、掛塚、浜松と3ヶ所にあり、三ヶ所とも「白羽の命」を祀っていると「曳馬拾遺」に書かれているということです。

 

本州の東半分に見られる謎多き『天白信仰』の起源は、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなったとウイキペディにあります。

 

もしかして一致してる?天白信仰に関係あるの?ということで、先回の記事「磐田の白羽神社」に続き、今回は浜松の『白羽神社』、次回は相良の「白羽神社」とお参りさせていただいた結果を検証していきたいと思っています。

 

まず、今回お参りした浜松市中央区白羽町に鎮座する『白羽神社』の起源は、鎌倉時代に創建された『春日明神』とされています。その後『春日神社』になり、昭和27年(1952年)1月、
・春日神社 創建は1208年(承元2年)
・八幡神社 創建は1676年(延宝4年)
・神明神社 創建は1629年(寛永6年)
の3社を合祀し、白羽という地名より『白羽神社』となったそうです。

 

600年ほど前に後醍醐天皇の皇子宗良親王が南朝の勢力を盛り返すために、吉野から集団を率いて東へ向かう途中大しけに遭い、船がこちらの遠州白羽にうちあげられた場所と伝えられています。

 

ただし、宗良親王の上陸地としては遠江南岸の浜松市、磐田市、御前崎市と3ヶ所の白羽が候補地とされているとか。

 

どうやら磐田の『白羽神社』同様、こちら浜松の『白羽神社』も天白信仰との関係はないようでしたが、井伊谷と深いつながりのある南朝の宗良親王が上陸した湊となれば、これまた違った興味が沸いてきて、ありがたくお参りさせていただきました。

 

浜松市中央区白羽町の白羽神社の拝殿

 

 

白羽神社(浜松市)

 

 

浜松市中央区白羽町​902 

 

《アクセス》

 

電車・バス:浜松駅から遠鉄バス[南行政センター行」乗車、[寺脇局前」下車、徒歩約14分
車:東名高速道路[浜松IC]より約24分。[浜松西IC]より約31分
駐車場:参拝者用駐車場があります
御朱印:不明

 

御由緒

 

神明造りの鳥居と境内でよい香りをさせていた蝋梅

 

神社名 白羽神社

武甕槌神 經津主神 天児屋根命 比賣天大神 誉田别之命 帶中比古命 
天照皇大神 豊宇気比賈神

由緒沿革

一 往古承元二年(七百六十三年前)神人白鹿に乘し現れ
  南方老松に住す村人崇敬し春日町神と稱へ奉祀す
一 寛永十五年十二月二十六日浜松城主は髙力攝津守忠房再建す
一 元禄九年西尾隠岐守社殿修理した
一 朱印髙五石 除地髙一石三斗七升を有す
一 明治六年三月郷社に列し春日神社と稱へた
一 境内地坪数 八百八拾坪 
一 昭和二年九月十日神饌幣帛指定社となる。
一 昭和二十七年一月宗教法人切切替に際し三社合祀し
  同年四月一日付にて社名変更し白羽神社と稱した
一 旧八幡神社 創建延寳四年九月建立棟札(元春日明神の末社)
一 旧神明神社 創立寛永六年八月十七伊勢神宮より奉還す

(境内案内板より)

 

なんだか漢字ばっかりで理解するのが難しいので、大体の意味を記しておきます。

 

1208年(承元2年) 神人白鹿に乗し南方松樹(今の字宮前、現2代目の松御神輿御旅所)に住す。村人崇敬し春日神社と稱え奉祀す。
1638年(寛永15年)12月26日 浜松城主 高力摂津守忠房再建
1696年(元禄9年) 西尾隠岐守、社殿修理。朱印高五石除地高一石三斗七升を有す。
1873年(明治6年)3月 郷社に列し春日神社と稱えた。
1927年(昭和2年)9月10日 神饌幣帛指定神社となる。
1952年(昭和27年1月 宗教法人切替に際し三社(春日神社、八幡神社、神明神社)合祀し同年4月1日付にて社名変更し白羽神社と稱えた。

・旧八幡神社 創建 延寳4年(1676年)9月建立棟札(元春日神明の末社)
・旧神明神社 創立 寛永6年(1629年)9月17日伊勢神宮より奉遷

 

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御祭神

 

拝殿と扁額

 

境内社と広い境内

 

【春日神社】

・武甕槌神(たけみかづちのかみ/刀剣の神であり「雷」という表記から、雷神でもあるとされる)
・經津主神(ふつぬしのかみ天孫降臨に先駆け出雲に行き大己貴命を説いて国土を献上させた)
・天之児屋根命(あめのこやねのみこと/中臣氏の祖神。天岩戸にこもった天照大神を引き出すために祝詞を奏している)

【八幡神社】

・比賣大神(ひめおおかみ/宗像三女神の一人の市杵島姫の可能性がある)
・誉田別之命(ほんだわけのみこと/応神天皇)
・帯中比古命(たらしなかひこのみこと/母は垂仁天皇の女)

【神明神社】

・天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ/最高神に位置付けられ、太陽神、皇祖神、巫女の3つの性格を併せ持つ存在として描かれている)
・豊宇気賣神(とようけひめのかみ/食物を司る豊受大神 穀物の神様である稚産霊の娘)

 

手水舎と手水鉢

 

白羽の地名の由来

 

浜松市公式ページでは「白羽の地名の由来」について下記のように書かれています。

 

「曳馬拾遺」は、白羽地名の起源について「しら浪のよるひる絶えず立つによりてこの名やあるらん、又相良の白羽、掛塚の白羽、一つ国に三つの白羽ある事いかなる故にや。三ヶ所とも白羽の命を祭れるなり」と述べている。

この町の氏神様である白羽神社(前は春日神社)の祭神は、白羽命である。
遠州灘の白波からくる説の他に、次のような説もある。
その昔、六百年ほど前のこと、後醍醐天皇の皇子宗良親王が南朝の勢力を盛り返すために、吉野から集団を率いて東へ向かう途中大しけに遭った。
船は、遠州白羽にうちあげられた。ある朝、風を切って飛んできた一本の矢が松の木に突き刺さった。
村人が驚いて矢の飛んできた方角を見ると、貴人が軍団を従えて船から降りてきた。
目の前を通り過ぎていく貴人が宗良親王だと知ったとき、村人たちは道にひざまずき、親王の一行を見送ったという。白羽の地名はここから出ているという。

この土地は、南朝方の支配下であったので、ここを上陸地として宗良親王が伊勢の大湊を出航したことは確かなようである。(白脇地区 七か町の由来より)

 

つまり、白羽(浜松市)の地名については、以下の3つの説があるということです。

①御祭神の白羽命から白羽とした説。

②遠州灘の白波からくる説。

③600年ほど前に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が大しけに遭い 遠州白羽にうち上げられた。ある朝、一本の矢が飛んできて松の木に刺さった。これをみた村人が驚いて矢が飛んできた先を見ると、宗良親王が船から降りてきた。貴人たち一行が目の前を通り過ぎる間、村人たちは道にひざまずいて見送ったという出来事から白羽の地名とした説。

 

宗良親王といえば、現在再放送中で個人的にかなり盛り上がっている『おんな城主直虎』で、直虎が井伊直政の再興が叶うまで守り続けた井伊家と深いかかわりのある人物です。③の宗良親王が現在の白羽という場所に漂着したという説を深堀りしてみましょう。

 

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宗良親王の上陸地はどこ?

 

広い境内と謎の石塔

 

上記の宗良親王の上陸地に関しても、実は遠江南岸の三ヵ所の白羽、つまり浜松市、磐田市、御前崎市の3ヶ所が候補地となっており、いずれも親王上陸地という伝承を伝えているのだそうですがいかがでしょう?実際どこだと思われますか?

 

伊勢の大湊を出航したことは間違いのないこととされており、伊勢湾にて嵐に遭遇し白羽の地に漂着したそうです。ちょっと想像してみましょう。

 

紀伊半島の東端から伊勢湾口を横切り、伊良湖岬を過ぎれば遠州灘。御存じのように遠州灘では冬に強い西風が吹きます。南北朝時代の船は風の力を頼りに進む帆船だったのではないでしょうか?

 

悪天候で船に危険が迫れば船を安定させなくてはいけません。積み荷を捨てたり、時には帆柱を切り倒して転覆を防いだと聞きます。風を受けることが出来なくなれば船は漂流するしかありません。そんなことからこの時代、遠州灘では多くの船が遭難したそうです。

 

まず、第一の関門は遠州灘。ここで遭難したとしたら親王の上陸地として浜松の白羽は可能性大です。ところが、漂流して海外までたどりついた例もあるそうですから、流されて磐田の白羽、さらに流されて御前崎の白羽も可能性はあるということです。

 

ただ、目的を考えると南朝興隆のために伊勢を出帆した宗良親王の一行が目指したのは、陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))ですから、座礁さえしなければ陸奥国へ上陸できたことでしょう。

 

ですが、実際座礁により遠江国に漂着し、親王の一行はここから井伊谷に入り豪族井伊行直のもとに身を寄せることになり、足利幕府軍と熾烈な戦いを繰り広げることになったわけですから、運が良かったのか悪かったのかはわかりません。

 

結局、足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現・新潟県長岡市)や、越中国(富山県)の放生津(現・富山県射水市)などに滞在した後、興国5年/康永3年(1344年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。
宗良親王はこの地を文中2年/応安6年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。

拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。

( 宗良親王 - Wikipedia)にはこのように書かれています。

 

宗良親王の終焉場所

 

さらに終焉場所については、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされる一方、『元中2年/至徳2年(1385年)8月10日に遠江国井伊城で薨去したと記されている書物もあるとのことで、宗良親王が遠江の3つのいずれかに上陸したとするなら、亡くなるまで縁の深かった井伊谷へ続く浜松の白羽が一番似合うのではないかと想像します。

 

白羽の湊(しろわのみなと)は、南朝興隆のために伊勢を出帆した宗良親王の一行が上陸した場所として伝えられている。親王の一行はここから井伊谷に入り、足利幕府軍と熾烈な戦いを繰り広げることになる。

(一本松の木陰に建つ顕彰碑より)

 

宗良親王上陸地はどこ?

 

初めに登場したグーグルマップでご確認ください。宗良親王上陸地の住所は浜松市中央区白羽町981です。浜松の『白羽神社』から南へ歩いて6分ほどの場所、馬込川が流れる脇に「宗良親王上陸地」はあります。そして、ここにある「宗良親王上陸地」の碑には以下のように書かれています。

 

「宗良親王上陸地」の碑

延元三年(1338年)秋の頃にや
伊勢より船にのりて遠江へ心ざし侍りしに
天龍のなだとかやにて 浪風なべてならずあらくなりて 二三にちまでおきにたヽよひ侍りしに
友なる船ともども みなここかしこにてしづみ侍りしに
からうじてしろわの湊といふ所へ 浪にうちあげられて われにもあらず舟さしよせ侍りしに 夜もすから波にしをれて いたへがたかりしかば

いかでほす ものとも知らず苫やかた 片敷袖の よるの浦波
    李花集

 

碑に刻まれている内容は、

延元三年(1338年)秋、伊勢を出帆した南朝後醍醐天皇の皇子宗良親王とその一行の船団は遠江を目指した。ところが目的地近くの天龍の灘にて激しい風浪に遭遇してしまった。船団は2〜3日沖で漂い続け、その間に沈む船もあったが、親王の船はかろうじて白羽の湊に打ち上げられた。とあります。また、碑文には李花集の詞書も記されています。

 

宗良親王(むねなが(むねよし)しんのう)とは?

 

宗良親王(1311〜1385南北朝時代)は後醍醐天皇の皇子。父の意向を受けて南朝方の支援を得るため、遠江の井伊家をたより挙兵するが、高師泰(こうのもろやす)ら北朝方の攻撃で 1340 年、南朝方拠点の三岳城(みたけじょう)、大平(おいだいら)城が落城し、信濃に敗走した。上陸した白羽(しろわ)(別説あり)ほか市内各地にゆかりの地が残る。

 

吉良(きら)とは?


三河の有力武将。斯波氏のもとで遠江に進出し、浜松荘を支配した。東海道沿いの引間とともに河口の白羽湊を掌握していた。法蔵寺(中央区白羽町)を開基し、供養塔が残る。


※法蔵寺について

静岡県浜松市中央区白羽町1261にある「浄土宗」のお寺です。法蔵寺は、もと天台宗大日寺といい、承安年間(1171〜1174年)に開創されました。その後、1433年(永享5年)京都知恩院より一誉上人を迎え、浄土宗の寺として再興されました。

 

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最後に

 

遠江の3カ所に鎮座する『白羽神社』、西遠の浜松市、中遠の磐田市、東遠の御前崎市。鎮座地の住所の字はすべて白羽(しろわ)です。今回はその中の西遠の浜松市の『白羽神社』をお参りさせていただきました。

 

白羽と聞けば、「天白の起源を伊勢神宮の神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)の祭神、天ノ白羽神が始元と考える」と書かれた山田宗睦著の『天白紀行』を愛読書とする私は白羽に異常な興味を持ち、どうしても参拝してみたかったというのが正直なところです。

 

批判を恐れずに記すとすれば、実は『天白紀行』の中にしっかりと「遠江の3つの『白羽神社』は天白とは関係ない」と書かれていたので、以前から天白と関係ないという事実は知っていたのです。まことに申し訳ございませんでした。

 

まあ天白の起源を求めての『遠江の天白神社巡り』で間違いはありませんが、白羽と聞けば心動いてしまうのは仕方ないこと。お参りさせていただけるなら、御由緒はもちろんですが、鎮座地の周辺環境や人々の暮らしの歴史まで知りたくなってしまった結果の記事になります。しかも、まだ東遠の御前崎市の『白羽神社』が残っています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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