こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
新年が明けて2日目(1/2)に気持ちも新たに参拝させていただいた”遠江の古の神を祀る神社”は、浜松市浜名区都田町に鎮座する『社宮神社』です。
都田周辺では子宝安産祈願の神様として知られているとのことで、お参りされている方の多くは子授けや安産祈願のようで、多くの方が感謝の気持ちを記帳されていました。
『社宮神社』の子授けの祈願の方法は少し変わっているようで、”おしゃもっ様と呼ばれる杓子で願いをすくい上げる”という由縁から、祈願の際に杓子型のお札を受け、無事に子どもを授かったら「おしゃもっ様」を神社に奉納するそうです。
旧暦の大晦日の夜ドンド焼きの火で餅を焼いて戴くと風邪をひかないといわれており、境内には『牛頭天王』と『阿弥陀如来』の祠があります。
確か中央区上島に鎮座する『天白神社』でも、”火渡りの火で焼いたお餅を食べると風邪をひかない”といわれていたのを思い出しました。
また主祭神は道祖神としても 全国で広く知られる岐神(ふなとのかみ)で、境内には牛頭天王須佐之男命と阿弥陀如来を祀っており、10世紀初期から明治元年の神仏分離まで続いたという『神仏習合』の形を残す貴重なお社です。
アラカンで子授けをお願いするような身近な人もいないので、今回もいつものように日頃の感謝と世界平和を伝えました。
遠江の歴史は古く、三ヶ人は約二万年前から浜北人は約1万8千年前から暮らし、ここ都田という地名も約千年前の平安時代から書物に登場していると聞きます。
「歴史のロマンは神社にあり」と感じることが多い神社巡りですが、今回『社宮神社』を参拝させていただいて、こちらの神社こそ縄文時代からの民間信仰をつなぐ歴史ある神社だと思いました。
社宮神社
鎮座地:浜松市浜名区都田町7029
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[常葉大学前駅]から徒歩約4分
天竜浜名湖線[都田駅]から徒歩約17分
車:東名高速道路[三方原スマートIC]から約23分
新東名高速道路[浜松SAスマートIC]から約29分
駐車場:ありません
御朱印:不明
おしゃもっ様:近くの須部神社で授与されています。また、発送もしてくださるとのこと。
社宮神社由緒


社宮神社由来について
古き時代、繩文時期、シャクジ社呼ばれる名前で古き時代より信仰されています。
長野県取諏訪大社の近くにあるシャクジ社と言われるお宮が本宮の様です。
お宮の大きさは、吉影の社宮神社の方が大きいようです
お祭りしている神様は白蛇の姿をされていると言われます。
白蛇=竜が別の姿とも考えられ竜神信仰の対象にもなっています。
蛇は何回も脱皮繰り返すため再生の神としてあがめられ子孫一族の繁栄の神の側面を持っている様です。それが今の子宝信仰に繋がっているようです。
なぜ片瀬にある社宮神社と呼ばれているのか、それは明治維新の時神社仏閣の取り潰しに会わない為に社宮神社と名前をかえたようです。
社宮神社の元の神社名は ミジャクジ社と言われたのでわないかなと思います。? 私たち片瀬の氏子の間では(おしゃぐっつあま)とも言い伝えられております。平成25年6月23日遷宮されました。
(境内の説明書きより)
『社宮神社』は、明治以前は「みしゃぐじ(御社宮司)」であったとされます。境内の説明書きには”古き時代、繩文時期、シャクジ社と呼ばれる名前で古き時代より信仰されています。長野県取諏訪大社の近くにミシャクジ社と言われるお宮が本宮の様です。”とあります。
やはり、縄文時代から人々が暮らしを営んでいたであろうこの場所は、現在のような争いばかりの時代を生きる私にとっては理想的な暮らしが営まれていたのではないかという妄想を掻き立てます。
ウイキペディアによると、ミシャグジにはさまざまな特性や実態があり、いろいろな説があるため、現在もその歴史のすべてが解明されたとはいえないようです。
かつては、諏訪地方のミシャグジと関東・近畿地方の一部で見られる石神信仰や、塞の神・道祖神信仰との間には類似点が多く、これらはすべて関連していると提唱され、諏訪の「御左口神(御社宮司)」信仰と似た名前を持つ他地方の神格にまつわる信仰はすべて「ミシャグジ信仰」としてひとまとめにして扱われることが主流でした。
ですが、近年は諏訪のミシャグジと他所の石神や「ミシャグジ的なもの」は切り分けて考えるべきであるという意見も現れてきたとのこと。
諏訪盆地に縄文文化が栄えていたこと、ミシャグジ(あるいは似た神格)を祀る神社に縄文期の石棒が神体になっている場合が多いことや、諏訪神社上社の神事には古風の要素が含まれていることなどから、ミシャグジ崇拝は非常に古く、縄文時代にまで遡る可能性があると推測されるようになったのです。
ただ、このような見解も最近疑問視されるようになってきたとのことですが、明治以前はみしゃぐじ(御社宮司)だったという『社宮神社』が今も都田に鎮座し、都田周辺では子宝安産祈願の神様として信仰を集めているということから、かなり古い時代から人々が暮らしを営んでいたことが窺えます。
遠江の歴史は古く、発掘された人骨から三ケ日人の生存していた年代は約二万年前とされ、三ケ日人や浜北人が活躍していたころは、かつて大陸と陸続きだった日本列島へ陸づたいにやってきたニホンジカ・オオツノジカ・イノシシ・ノウサギ・オオカミ・ヒョウ・アオモリゾウ・クズウアナグマ・サルなどのこうした動物の群がうろついていたであろうとされます。
関連記事≫
そして、社宮神社が鎮座するここ都田地区では縄文時代の遺跡が発掘されていることから、既に縄文時代には人が住んでいたことが証明されています。さらに都田という地名が書物に登場したのは平安時代。
書物には「京田郷(みやこだごう)」と記され、この文字を記した木簡も出土しており、京田(みやこだ)という地名が約千年も前から使われていると聞きます。こうなると自然と富士王朝や飛騨王朝にも興味が沸いてきてしまいます。
御祭神


船戸神(ふなとのかみ/岐神 )
道祖神としても 全国で広く知られる船戸神=岐神が祀られています。
社宮神社
鎮座地 浜松市都田町吉影片瀬
御祭神 船戸神(ふなとのかみ)
例祭日 旧暦元旦
由緒
創建の年代は不詳であるが、樹齢五百年以上と推定される御神木の 鹿の子木又(六駁)を始め槙(マキ)·榧(カヤ)・椿(ツバキ)・樫(カシ)等の森から見て、この地の氏神として古い歴史を感じる。昔から悪疫、災禍を防ぎ、子授けの霊験あらたかの御神徳で崇敬を あつめている。願主は杓子(しゃくし/しゃもじ)を奉納 する慣しがある。旧暦の大晦日の夜ドンド焼きの火で餅を焼いて戴くと風邪をひかない。境内に牛頭天王と阿弥陀如来の祠がある。
(境内由緒書より)
ウイキペディアによれば、古くから牛馬守護の神、豊穣の神として、また、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されているとのこと。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神とされ、他にも久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もあるそうです。
「くなど」とは「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味を持ち、元々は、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神とされています。
村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である道祖神の原型の一つで、岐(ちまた/巷/衢)また辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言うそうです。
道祖神とは?
道祖神は障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい-のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもあり、のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだ石碑や石像の形態で祀られています。
なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」に転じて神道の猿田彦神とも習合しました。猿田彦神および猿田彦の妻といわれる天宇受売命(アメノウズメ)と男女一対の形で習合したりもしています。
さらに、同祖神は仏教とも習合しており、祇園精舎と薬師如来の守り神であった山王神(仏教的には大威徳明王)が、庚申の日に生まれたことから、庚申講や庚申塚などの風習が奈良時代までは大流行していたといいます。
道祖神が数多く作られるようになったのは18世紀から19世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期です。
参照元:ミシャグジ - Wikipedia 道祖神 - Wikipedia 岐の神 - Wikipedia
御祭神の船戸神=岐神
岐神(ふなとのかみ)はクナド神とも言われ、富家伝承によれば出雲族が元々奉祭していた神は、大国主命や事代主命ではなく、クナト大神とその姫神幸ノ神と子神のサルタヒコの命の三神であったようです。
クナト大神とは、インダス文明を築き上げたドラヴィダ族のクナ国を支配していたクナト王のことのようですし、そもそも出雲族の起源は、3千5百年以上前にアーリア人の侵攻によって、日本に民族移動してきた数千人のインドの先住民ドラヴィダ人だそうです。
DNA的に近いとされるブリヤート人がいるバイカル湖付近の北方経由で日本に辿り着き、出雲人となったという説もあり、ドラヴィダ族はタミル語を話していたそうですが、このタミル語が縄文語と交わり、弥生時代になると弥生語と交わり、それが出雲弁となり東北弁にも繋がっていったという方もいらっしゃいます。
つまり、ドラヴィダ族の子孫である出雲神族が祖神の「クナト大神」を信仰し、やがて浜松市の都田でも出雲と同じ「クナト大神」を祀るに至ったのではないか?というロマンある風景が少しだけ想像できます。
「おしゃもっ様」という杓子


「おしゃもっ様」は近くの『須部神社』で授与されているそうので、須部神社もお参りされてはいかがでしょう。
ただ、身重でなかなか訪ねることができない方のため、発送もしてくださるというありがたい内容の説明書きを下に貼っておきます。
「おしゃもっ様」緣起
「おしゃもっ様」の杓子はその霊験から、元来、一年に一度しか授与されない大変 希少なものでした。
「おしゃもっ様」と観しまれております社宮神社は、遠州浜名湖の奥座敷、都田町 字吉影に鎮座いたします。
男女のシンボルを祀る、道祖神としても 全国で広く知られる岐神(ふなとのかみ)を祀り、境内には牛頭天王須佐之男命と阿弥陀如来を祀るという神仏習合の形を今なお残した、由緒正しきお社です。
様々な呼称を持ち、「社宮司」或いは、「産宮神」とも呼ばれ、樹齢約四百年を数えんとする鹿子木の巨木には、女性の シンボルの如き穴がポッカリと口を開け、 やがて子授け、夫婦和合から子宝安産の霊験有りとして広まり、数多くの信仰を集めるようになりました。
殊に、杓子で願いをすくい上げるという由縁にちなんで、ご神前へ杓子の献供が盛んになり、次第に子宝をすくい上げるという意に通じ、子授けや、安産育子を願う人々へ撤下されるようになりました。
当社では、少しでも多くの人々に、この御神徳を分かちたいとの念より、吉日に杓子を社宮神社に奉納し、その御神徳をいただいた杓子だけを「おしゃもっ様」 として木札に謹製をいたし、子宝安産を祈願する人々へおわけいたしております。
また、身重の方々が参拝されるご苦労を 思い、「おしゃもっ様」の発送を、お受け いたしております。子授け・安産を願う親の心はみな共通です。どうかお気軽にお問い合わせいただければ幸いです。
終わりに、垂乳根の母に抱かれし神より授かりたる子宝の、呉竹のごとくにすくすくと生い立ち栄えんことをご祈念申し 上げてご挨拶にかえさせて戴きます。
静岡県浜松市都田町六五一四
社宮神社々務所
(拝殿前の説明書きより)
『牛頭天王須佐之男命』を祀る祠
関連記事≫
『阿弥陀如来』を祀る祠


関連記事≫
まとめ
今回は船戸神を祀る『社宮神社』を参拝させていただきました。いろいろな説があってミシャグジ信仰だから縄文時代から信仰されているとは明言できない感じです。
ところが、こちらの『社宮神社』は、”明治以前は「みしゃぐじ(御社宮司)」であったとされますし、長野県取諏訪大社の近くにミシャクジ社と言われるお宮が本宮の様です。”と説明書きにもあるため、これは本物の縄文時代から信仰されている神社!と感じました。
というのも、元々遠江は三ヶ日人や浜北人などの人骨が遺跡から発掘されている歴史のあるロマンあふれる地域です。『社宮神社』が鎮座する都田地区も縄文時代の遺跡が発掘されていることから、既に縄文時代には人が住んでいたことが証明されている場所です。
妄想ですから読むだけにしておいて欲しいのですが、実は子供の頃から「石でできたでっかいお金を持ち歩き、着るものは寅の毛皮という『はじめ人間ギャートルズ』の世界観が縄文時代と信じていたのです。
ところが、youtubeといういろいろな知識が無料で学べるアイテムで、実は争いのない時代で、森で栗やクルミなどの木の実や、川や海で鮭やブリなどの魚をとり、猪や鹿、野兎などの獣を狩猟で獲ってくる人、蜆やアサリなどを集める人、狩猟はできないので食べるだけの人(理由はいろいろ)、縄文土器を使い料理をする人などでムラを作り、竪穴式住居などで長い間同じところに住んでいたと学びました。お墓もこうした住まいの近くにあったといいます。
このように自然と共生した生活を送っていた縄文人にあこがれているのですが、賢い縄文人は自然は恵みをもたらしてくれるけれども、一方で人間にはどうすることもできない大きな災害をもたらす力を持っていると知り、自然への畏怖の念から自然を崇拝する信仰が生まれ、祭祀が行われるようになったと聞きます。
今は何事も善悪で片づけていますし、何か事件が起きると犯人捜しが始まってしまうような社会です。縄文人を見習うとしたら、誰もが個人の特徴を生かした役割を持ち、誰もが食べることに困らない社会、自然災害に関しても普段から与えてくれている恵みに感謝して無事を祈り助けあうことかな?と思います。
今を生きる私たちにとって、たとえ「困ったときの神頼み」だとしても、神社やお寺さんってすごく大切で、本当はもっと身近なのではないでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。