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こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
最近知った主に東日本にみられる『天白信仰』、その分布は長野県、静岡県を中心とし三重県の南部・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっています。
日本の東半分に入る静岡県だったら、きっと「天白社・天白神社」はたくさんあるんじゃないか?ということで、先日からグーグル先生の手を借りながら少しずつ参拝させてもらっています。
謎が多い「天白信仰」は、縄文時代の星神信仰をベースに様々な神仏が習合していったのではないか?ともいわれていますし、浜松周辺の「天白神社」は古代海や川があったであろう沼った場所や浜名湖周辺に多く、海や川を鎮める神様ではないかと感じています。
実際にこの遠江地方の「天白神社」や「天白社」をお参りしてわかったことは、現在も信仰されている方が多く、定期的にバザー的な行事が盛んに行われています。大晦日の晩に行われる”火渡り”の儀式が有名だそうです。
大晦日の晩に近くの「天白社」をお参りしたことはまだありませんが、今年こそは!と思っています。なぜなら、なんかアツアツの”そば”だったか”うどん”だったかを100円で食べさせてくれるという噂を耳にしたから(笑)そういえば秋の例大祭の時も境内では射的や露店でにぎわっていました。
御存じとは思いますが、大晦日の”火渡り”は火の上を歩くわけではなく、火の上に並べた木の上を履物を手に持ちこわごわと小走りします。もう一つ、参拝する皆さんはお餅を持参して、火渡りの残り火でお餅を焼きます。御神火で焼いたお餅を食べることで1年中風邪をひかないと言い伝えられているからだそうです。
「謎の多い天白信仰を求めての神社巡り」は、11月17日に参拝した浜松市中央区入野町に鎮座する『天白神社[天馬駒(てんぱこ)神社]』から始めたいと思います。
御祭神が「天白羽大神(アメノシラハノオオカミ)」ですから、中日新聞に連載された『天白紀行』で、三重・愛知・長野・静岡。山梨の5県を調査した山田宗睦氏がいう「天白の起源を天ノ白羽に求める」に合致した神社です。
『天白神社(天馬駒神社)』は、もちろん「天白紀行 増補改訂版」の文庫本の中にもその名が登場しています。
天白神社[天馬駒(てんぱこ)神社
鎮座地:浜松市中央区入野町8989
《アクセス》
電車・バス:JR[高塚駅]から徒歩約20分
車:東名高速道路[浜松西IC]から約20分
駐車場:神社前に2~3台停められる駐車場があります
御朱印:不明
天白神社の御祭神
天白羽大神(アメノシラハノオオカミ)
上島の『高貴神社』の横に鎮座する『天白社』でも、こちらの入野の『天白神社』でも天白羽大神とは、白髪の老人で白馬にまたがり現れ、人々を被害から救ってくれる神と伝わっているようです。
先回『天白信仰』を深堀りした記事に書いた『長白羽神(ながしらはのかみ)』の別名が『天白羽神(あめのしらはのかみ)』という件ですが、となると長白羽神が白髪の老人なのか知りたくなります。また、調べて追記したいと思います。
ちなみに、長白羽神は天太玉命(あめのふただまのみこと)の同族神であるといい、常陸国久慈郡(現茨城県常陸太田市)の式内社『天志良波神社』、また丹後国与謝郡(現京都府与謝郡与謝野町岩屋)『阿知江磯部神社』の祭神として祀られています。
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御由緒
奈良時代の天平20年(西暦748年)に創建されたと伝わり、約1300年近い歴史を持っています。
小さな神社ですが神社庁に登録されています。境内の建造物が一新されたのは、石柱に刻まれた「昭和15年10月」。「皇紀2600年」の奉祝ということで、こちらの『天白神社』もきれいに整備されてのではないかと思われます。
入り口の石柱には「天馬駒(てんぱこ)神社」、拝殿の扁額には「天白大神」と書いてあります。創建も奈良時代ですから、御祭神を決める以前の自然崇拝の時から崇敬を集めていたのではないでしょうか?
2008年(平成20年)4月に火災で社殿を焼失、後に地域の皆さんのおかげで立派な社殿に変わったとのこと。『拝殿』は珍しく壁のない吹き抜けです。豊橋の『石巻神社 里宮社』で初めて知ったタイプの拝殿です。
駐車場


神社の鳥居前に2~3台駐車できるスペースがあり「天白神社駐車場」と書かれたプレートも立っています。
石柱


鳥居横の石柱には「天馬駒神社」「昭和15年10月」と記されており、創建の年は不明です。ただ、少し離れて眺めてみると、お社は少し高い石垣の上に鎮座しています。
石灯籠の横の石碑には「皇紀二千六百年」と刻まれています。
皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の年数を数える出発点となる年。紀年法)で、1872年(明治5年)に明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年としたそうです。
1940年(昭和15年)が「皇紀2600年」に当たるとして、橿原神宮(かしはらじんぐう/奈良県橿原市)・神武天皇陵の整備や奉祝の行事が行われました。
ただし、「皇紀2600年」は、日中戦争の戦時下であったため、国民の生活は苦しくなりかけていたと聞きますし、翌年12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争)開戦となってしまったのです。
「天白紀行」の著者山田宗睦氏は、
神社の背後に浜名湖へそそぐ佐鳴湖の落口がある。この天白社が治水農耕の神であったことをしのばせる立地である。佐鳴湖は例の三遠式銅鐸がつくられたところだし、諏訪信仰の伝承中にもこの佐鳴湖の事が出てくる。
著書に書いています。
マップをご覧いただくとわかりますが、現在の佐鳴湖に近い場所にこちらの「天白神社」は鎮座しています。やはり沼地だったであろうこの地を、農耕のため開拓した人々が治水・農耕の神として信仰されたのだろうと想像できます。
気になるのは、『三遠式銅鐸』が作られたのが佐鳴湖で、諏訪信仰の伝承中にもこの佐鳴湖の事が出てくる。という著者の言葉です。あとで『三遠式銅鐸』について記しておきます。
鳥居


石造りの鳥居にかかる石の扁額に書かれた文字は、かすれてしまっていて読めません。
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秋葉灯籠?
彫刻が入った立派な灯篭があります。もしかしたら「秋葉道常夜灯」かもしれませんが不明です。
狛犬


『狛犬』、犬というよりも獅子に近く凛々しい感じです。土台は新しいですが、本体は少し黒っぽくて歴史を感じます。
拝殿・本殿


『拝殿』は、珍しく壁のない吹き抜けタイプ、『本殿』は神明造でまだ新しい感じがするのは、2008年(平成20年)4月に火災で社殿を焼失、後に地域の皆さんのおかげで立派な社殿に変わったからなんですね。
参照元:天白信仰 - Wikipedia
三遠式銅鐸とは?
先ほど「天白紀行」(著者山田宗睦氏)の内容に『三遠式銅鐸』が登場して気になったので調べました。
まず『銅鐸』とは?
「銅鐸(どうたく)」は、近畿地方を中心に分布しています。 元々は鐘(かね)として音を鳴らし、合図を送るために使われていたようです。 銅鐸の表面には、様々な絵が描かれていることもあります。 水田に生きる動物や農耕に関連した場面が多いことから、豊作を祈る祭りの道具として使われていたのだと考えられています。
弥生時代の人びとが、農作物の五穀豊穣を願うお祭りの道具として、使っていたと考えられています。 弥生時代前期に作られ始めた頃、形は小さくひもで吊り下げて鳴らす「聞く銅鐸」でしたが、時代とともに大きくなり、飾りもきらびやかになり「見る銅鐸」に変わっていきました。
浜松の銅鐸とは?
銅鐸文化圏の東のはずれに位置する浜松市域では19口の銅鐸が出土し、そのうち14口は浜名湖北岸地域で出土したも のです。特徴が明らかなものはいずれも弥生時代後期 (約2000年から1900年前)のもので、袈裟襷文銅鐸と呼ばれています。
東海地方で多く見られるのが「三遠式銅鐸」です。「三遠」とは旧国名で三河の国と遠州の国で発見されることが多いのでここから命名されました。遠江地方は、弥生時代も終わりに近いころになって、ようやく銅鐸文化圏の仲間入りをしたとのこと。で、天白信仰とのつながりは不明です。ただ、三河とのつながりが弥生時代からあったということは確かなようです。
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最後に
今回の記事は「謎の多い天白信仰を静岡の地を巡る」第一弾として奈良時代の天平20年(西暦748年)に創建されたと伝わる浜松市中央区入野町に鎮座する『天白神社[天馬駒神社(てんぱこじんじゃ)]』参拝した記事です。
約1300年近い歴史を持っている神社にしては新しい感じがしたのは、境内の建造物が一新されたのは、「皇紀2600年」奉祝の昭和15年10月。ところが2008年(平成20年)4月に火災で社殿を焼失、後に地域の皆さんのおかげで立派な社殿に変わったからと知りました。
御祭神「天白羽大神」で、中日新聞に連載された『天白紀行』の著者である山田宗睦氏がいう「天白の起源を天ノ白羽に求める」に合致した神社になりますが、少し気になるのが地元では”白髪の老人で白馬に乗って被害に遭った人を助けに来る神様”と言われている点です。
別名「長白羽神」といわれているのだから、この長白羽神もおじいんさんなのよね?素人はこの辺がわからなくてつらいです。これからしばらく『天白神社』巡りが続くので、そのうちに解決できたらいいなと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。