こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回は一説では浜松市内で最も古い神社といわれる『蒲神明宮』をお参りしたとき(2022年8月14日)の記事です。
こちらの蒲神明宮、地元では「全ての願いを叶える神様」として知られているのですが、元々は千年以上も前に「蒲大神(かばのおおかみ)」を奉していたところに「神明宮」を勧請したそうです。そのため古来社殿はなかったといいます。
また『鎌倉殿の13人』をご覧になられていた方なら御存じかと思いますが、兄の源頼朝に対して忠義の人だったのに、ほんの小さなボタンの掛け違いから頼朝から将軍の座への野心を疑われてしまい、ついには伊豆の修善寺に流され殺されてしまう不幸な源範頼。
この範頼は地域に伝わる言い伝えによると、蒲御厨(かばのみくりや)で成人するまで過ごしたといわれ、幼少期はこちらの『蒲神明宮』に預けられています。
蒲神明宮(かばしんめいぐう)
鎮座地:浜松市東区神立町471-1
《アクセス》
電車・バス:JR[浜松駅]より徒歩約37分
浜松駅前より遠鉄バス[75笠井上町行き]乗車→[佐藤3丁目]下車、徒歩約6分
車:東名高速道路[浜松IC]より約16分
駐車場:無料駐車場があります
御朱印:いただけます
蒲神明宮とは?


聖遠女子学園の北側にある袖紫ケ森に鎮座する社が『蒲神明宮』で、初めは「蒲大神(かばのおおかみ)」を奉していたところに「神明宮」を勧請しました。そのため古来社殿はありませんでした。
蒲大神の創立年月日は不詳ですが、一説では浜松市内で最も古い神社だといわれ、一説では806年(大同元年)創立だともいわれています。
その後、藤原鎌足十世(ふじわらかまたりじっせい)の十代の孫である藤原氏北家出身の越後守静並(えちごのかみふじわらのしずなみ)公が、伊勢神宮の神託を受け、蒲の生い茂るこの地一帯を開拓し初代蒲氏を名乗りました。
開拓した土地、見田(みた)550町歩を伊勢神宮に寄進して神領とし、蒲御厨(かばみくりや)としました。伊勢神宮ではその頃の907年(延喜7年)に「私弊禁断」制度が始まっています。
「私弊禁断」とは、伊勢神宮に参拝できるのは、特定の皇族に限られ、民間人は参拝してはいけないという制度です。この制度は江戸時代末期まで続いたそうで、現代のように誰でもお参りできるようになったのは明治以降とのこと。
そして伊勢神宮からご神体を分霊してこの地に『神明宮』を創設したと伝えられています。以来、今川氏、豊臣秀吉、徳川家康と代々の将軍や武将に社領を寄進され信仰されてきました。
江戸時代までは「蒲大神」または「神立神明宮」と呼ばれていましたが、明治6年に現在の『蒲神明宮』と改称され、現在のように「蒲神明宮」と呼ばれるようになったとのことです。
地元では御祭神である天照大御神を「ごしんさま」と親しみ敬い、日の神として皇室や国民すべての崇拝の中心となるごしんさまは「願い事なら全てをかなえてくれる」というなんとも頼もしいご利益がある神社として親しまれています。
御祭神


【神明宮】
内宮 相殿二座
天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
天照大御神は、その文字が示すように、天を照らす太陽を象徴しています。 しかし、太陽そのものを神とするのではなく、太陽に例えられるような、偉大で明るい立派な日本民族の祖神を意味する神さまなため、神宮では天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と申し上げているとのこと。
外宮 相殿三座
豊受比賣神(とよひめのかみ)
伊雑宮 相殿一座
伊佐波登美命(いさわとみのみこと)
高宮 古来社殿はない
気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
土宮 古来社殿はない
大土御祖神(おおつちみおやのかみ)
【摂社】大蒲町鎮座
八柱神社 相殿七座
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
【末社】


西宮神社 蛭子命(えびすのみこと)
津島神社 須佐之男命(すさのおのみこと)
厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
祓戸稲荷神社 相殿二座
大宮姫命(おおみやひめのみこと)
五社稲荷神社 相殿四座
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
静並伝説
静並伝説
藤原鎌足公十代の子孫、藤原氏北家出身の藤原静並公は、越後国の国司に任命されて以来、毎年、家来を伴って伊勢神宮にお参りをしていた。
ある年のこと、お祈りしていると、御本殿の方から一匹の白い蛇が出てきて、静並公の着ていた狩衣の左の袖に昇ったかと思うと、御本殿の方に戻って行った。
不思議なことがあるものだと、左の袖を見ると、何と文字らしいものが見え「蒲開発本願主」と書いてあるではないか。言わば、「蒲の土地を開発するのはあなたですよ」という。神様からのご指名をいただいたのである。
しかし、静並公には、蒲の土地がどこにあるのかわからない。困り果てていたところに、遠江国から来た人がいて、「蒲が生い茂り、肥沃な、いい土地ですよ」と教えてくれた。
静並公は喜んで、家来共々、この蒲の地にやってきて、土地を開墾し、その土地を伊勢神宮に「蒲御厨」として寄進し、神明宮を勧請したのだと伝えられている。
(蒲神明宮のパンフレットより)
蒲桜伝説


『蒲神明宮』の入口では、「蒲桜伝説」と書かれた説明板と桜の木に目が行きます。
この桜は、蒲(かば)どの」こと源範頼が平家討伐の総大将として上洛。その時に戦勝祈願をした重県鈴鹿市の「石薬師」で、自分の居城に植えた「石戸(いしど)蒲桜」(埼玉県北本市)でこしらえた杖を地面にさしたところ、大勝利に桜が芽を吹いたという言い伝えが残り、「石薬師蒲桜」(三重県鈴鹿市)と呼ばれています。
現在も咲き誇るという「石戸蒲桜」と「石薬師蒲桜」、今回石薬師のご厚意によって「石薬師蒲桜」の後継樹が寄贈されたものだそうです。
蒲桜伝説
今からおよそ八百年の昔、この蒲の地で育てられた源氏の貴公子、蒲冠者範頼(かばのかんじゃのりより)は、兄頼朝の挙兵に応じて関東に向かう時、大好きだった桜の苗木を持参して自分の居城に植えた。これを蒲桜と言う。これは、今も埼玉県北本市にあって、石戸(いしど)の蒲桜と言う。樹齢八百年。
やがて、範頼公は、平家追討の総大将として上洛。その途上、三重県鈴鹿市の石薬師に立ち寄って、戦勝祈願をした。その時、蒲桜でこしらえたを逆さに立て、「もしも戦に勝ったなら、きっと生きよ」と言って、大地に突き挿した。幸い、源氏の大勝利に、この蒲桜が芽を吹き、それが今に至ったと伝えられている。石薬師の蒲桜である。
この度、三重県鈴鹿市の石薬師の皆様のご厚意によって石薬師の蒲桜の里帰りが実現した。どうか皆様、末永く可愛がってください。浜松市東区役所
(説明板より)
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蒲冠者源範頼の伝説
蒲冠者源範頼の伝説とは、源範頼は源平戦で活躍するも兄の頼朝に殺されてしまうという伝説です。
まずは「蒲冠者(かばのかじゃ)」「蒲(かば)どの」とも呼ばれる源範頼(1154〜1193年)について記しておきましょう。『鎌倉殿の13人』をご覧になられていた方ならよくご存じでしょう。
源範頼は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で、源平の戦いで大活躍した源義経の兄になります。ちなみに源頼朝は9人兄弟で、範頼は父源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄です。
地域に伝わる言い伝えによると、源範頼は、蒲御厨(かばのみくりや)で成人するまで過ごしたといわれ、幼少期は蒲神明宮に預けられています。範頼は、蒲で育ったために「蒲冠者」「蒲殿」と呼ばれるようになりました。
範頼は『治承・寿永の乱』では頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たし人々に知られるようになりました。
その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすのですが、のちに源平の戦いでの弟義経の活躍により注目が集まると、頼朝自身への忠義心に不信を抱くようになり、範頼に義経を討つように命じたのです。
範頼が断り続けると、頼朝は今度は範頼にも疑いの目を向けます。範頼は不忠の心がないことを証明するため、誓書を千枚も書いて許しを得ます。この出来事以降の範頼は兄弟としてではなく頼朝の御家人として仕えます。
富士の裾野での巻狩りで、頼朝が殺されたという噂が広まった時、範頼は頼朝の妻のところへ駆けつけ「私がいるから大丈夫」と声を掛けたことで、頼朝から将軍の座への野心を疑われ、伊豆の修善寺に流され殺されてしまうという不幸な最期を迎えます。
龍泉寺


範頼が不幸な最期を迎えた時、範頼がかわいがっていた馬が範頼の首をくわえ、範頼の蒲御厨にある「稲荷山龍泉寺(浜松市南区飯田町990-1)」まで走り続け、池のまわりを3回まわって倒れたと言い伝えられています。
駒塚


倒れた愛馬を供養する馬頭観音を祀る『駒塚』が、今も菩提寺である『龍泉寺』の近くに残り、「爲範頼の愛馬供養塔」と書かれた碑が残されています。


周りは自然あふれる田園風景、その中に小さな古墳のようなスペースがあります。これが「駒塚」で、今もきれいにお手入れされている点、さらに、その愛馬まで供養してくれている点からも範頼は今でも地元の皆さんから愛される悲運の武将だったと改めて感じます。
蒲御曹司源範頼公碑


南東の道を隔てた墓地には、江戸時代のものと思われる「蒲御曹司源範頼公碑」という大きな五重の塔があったようで、範頼の墓と伝えられていました。
実際に現地で探してみましたが、江戸時代のものと思えるような五重の塔は見つかりませんでしたが、最近新しくお墓を作ったかも?の素敵な墓碑(上の写真のような)を見つけました。
参照元:源範頼 - Wikipedia <AmazonPR>浜松歴史のとびら
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最後に
もう2年も前に参拝させていただいた『蒲神明宮』ですが、その時のことは今でもはっきり覚えています。
ちょうど『鎌倉殿の13人』が放送されてい時で、蒲どのと呼ばれる源範頼がこの浜松市の「蒲病院」しか知らなかった「蒲」の地で育った源氏の貴公子で、しかも「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えた「鎌倉幕府」を作った源頼朝の兄弟だなんて思いもよらない歴史を目の当たりにしたころです。
歴史おんちの私が少しだけ歴史に興味を持ち始めた感じで、今ほど熱心に由緒書きを見て御祭神を知ろうともしなかったんです。
ところが、ドラマの中で遠江の「蒲の地」で育った範頼君があんなに一生懸命お兄ちゃんに尽くしているのに、なぜかしらひどい目にあってしまったことにショックを受けました。だから、蒲の御厨で成人するまで過ごし、幼少期に預けられたという『蒲神明宮』をお参りしたのでした。
そして一生懸命に範頼君のことをお願いしたのです。お参りしたあと愛馬が範頼の最期を見届け、首をくわえ、蒲御厨にある「稲荷山龍泉寺」まで走り続け、池のまわりを3回まわって倒れた場所や、今も供養され続けていると感じる「駒塚」などもお参りすると、不思議と気持ちがすっきりしたのでした。
今も神社や仏閣を多く参拝させていただいているのは、その時心を落ち着かせてくれる場所があると知ってしまったからのような気もします。これからも続けていいですよね。
最期までお読みいただきありがとうございました。では、またです。