こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回お参りしてきた神社は浜松市浜名区細江町に鎮座する『蜂前(はちさき)神社』です。
蜂前神社は、およそ1700年前に建てられた神社。三方原から祝田(ほうだ)の坂を下ったところに鎮座する古社です。
この場所は『三方原の戦い』で武田軍が徳川軍を待ち伏せしたといわれる場所です。家康もこの蜂前神社に必勝祈願に訪れたといいます。
数年前放送された大河ドラマ『おんな城主直虎』人気で、放送当時はたくさんのファンが訪れたと聞きます。というのも、『蜂前神社』が井伊直虎の花押のある唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵しているからでしょう。
現在は浜松市博物館に保管されている古文書ですが、『蜂前神社』拝殿の中には直虎の花押が記された徳政令の受け入れを記した書「井伊直虎関口氏経連署状」のコピーが額に入れられ展示されています。
ちょっと神社としては意外にも「浜松なのに沖縄のキノボロトカゲが獲れる」と中日新聞( 「浜松なのに沖縄のキノボリトカゲが捕れる」神社 詰めかける爬虫類マニアに氏子総代らが思うこと:中日新聞Web)の記事で有名に!ペットとして持ち込まれた個体が逃がされるなどして浜松市で定着し繁殖したということで、2022年には少なくとも185匹が獲れたとか。
私が出かけた2024年8月12日も夏休みということで、お参りよりも「キノボリトカゲ」目当ての少年が汗を拭きながら探し求めていてビックリでした。
もちろん直虎の花押のあるコピーを楽しみに、また事業成功、産業振興、地域安全、家内安全、厄災除けの御利益があるということで、地域安全として地震が起きませんように!と願いを込めて『蜂前神社』をお参りしてきました。
蜂前(はちさき)神社
鎮座地:浜松市浜名区細江町中川6915
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[金指駅]より徒歩約5分
[浜松駅]⑮乗り場より遠鉄バス[奥山・伊平行き]約40分[祝田バス停]下車徒歩約5分
車:新東名高速道路[浜松いなさIC]より約20分
駐車場:地域の公民館と併設、駐車場はこちらを利用しました。
御朱印:直書きでいただけました(ラッキー)。毎月第1日曜日と例大祭の日は社務所が開いているとのことで、平日にいただけるものではないようですので、注意しましょう。
御由緒
『蜂前神社』は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、旧社格は郷社です。
創建は西暦280年(応神天皇11年3月8日)、八田毛止恵という人が勅命によって遠江国へ下向して、八田(祝田村の古名)四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)の八町三反、の合計百二十三町歩余りを開墾して本社を八ケ前(さき)の地に勧請して『蜂前神社』として斎き奉り子孫代々祝部として奉仕したそうです。
また、脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と称えられ西暦927年(延長5年)に『蜂前神社』と改められ古名に復しました。(境内案内板より)
御祭神
御祭神は 本社に熯速日命(ヒノハヤヒノミコト/別名、 樋速日( ヒハヤヒ神)とも言う)です。
左脇宮には甕速日命(ミカハヤヒノミコト)
右脇宮には武甕槌命(タケミカヅチノミコ/最大の御利益は「勝利」の三柱をお祀りしています。
これら3柱の神様は『鹿島神社』の御祭神でもありますね。『蜂前神社』の御利益は
・勝負必勝
・起業・事始め
・家内安全
・交通安全
・開運厄除
とあります。事業を起こされれいる方が多く参拝に訪れているという印象で、この日もスーツ姿の青年が急ぎ足でお参りされていたのが印象的でした。
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徳政令の受け入れを記した書
鳥飼神社、羽鳥大明神と名を変え、972年にこの『蜂前神社』の名になったこちらは、直虎の花押が記された唯一の資料「関口氏経次郎直虎連署判物」を所蔵している神社として知られています。
ちなみに現在は浜松市博物館が保管していますが、もちろんこちらの『蜂前神社』には複製があり、拝殿の中で展示されています。実は花押を女性が使うことは珍しいということで、大変貴重な文書とされているそうです。
説枚書きにもあるように、直虎は、跡取りがまだ幼く、お家断絶の危機にあった井伊家を救うために家督を預かり、井伊谷城の女城主となります。当時の井伊家は、今川氏の傘下にあり、その領地を奪う狙いで今川氏真は徳政令を出しましたが、直虎は独自の考えでこれを2年間はねつけました。
2年後には徳政令を発動せざるを得なくなり、そのときに、同じ今川方の関口氏常との連署で、徳政令を井伊領の祝田の人々に伝えたものが「井伊直虎関口氏経連署状」です。
では、歴史に深さを感じられる石造りの鳥居をくぐりご参拝していきましょう。
鳥居
鳥居をくぐると、すぐ右側には子育ての神『乳於母命(ちおぼみこと)神社』が鎮座しています。小さなお社ですが、御朱印も用意されていますし、子育て中のパパ・ママも多く参拝に訪れるようです。
乳於母命(ちおぼみこと)神社
さらに、参道を進めると『天王宮』のお社があります。
天王宮
『蜂前神社』の由来などの境内案内板
井伊家ゆかりの地
蜂前神社(はちさきじんじゃ)
神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部(おさかべ)郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。 井伊直盛(なおもり)の代に今川義元(よしもと)に謀反を疑われた一族の直満(なおみつ)・直義(なおよし)が殺害され、直満の子・亀之丞(かめのじょう)は信州に身を隠し、許婚(いいなづけ)だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元年(1555) に帰還した亀之丞は名を直親(なおちか )と改め、神社のある祝田村(ほうだむら)に住みました。桶狭間(おけはざま)で主君・義元とともに直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、今川家から徳川家への離反を疑われて謀殺されます。存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対し、永禄9年(1566)、今川氏真は井伊谷及び祝田・ 都田(みやこだ)の地域に徳政令 [賃借関係の破棄〕を命じました。直虎は独自の判断で、 徳政令の実施を2年間押しとどめています。蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。
平成28年3月 北区まちづくり推進課
由緒
十五代應神天皇十一年庚子(かのえね)三月八日(西暦280年)に八田毛止恵と云う人が勅命によって遠江國に下向して
八田(祝田村の古名)四十五町
廣田(刑部村の古名)七十町
岩瀬(瀬戸村の古名)の八町三反
合計百二十三町歩余りを開墾して本社を八ケ前(さき)に勧請して蜂前神社と齋き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と称えられ延長五年(西暦927年)『蜂前神社』と改め古名に復しました。
延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。
昭和五年拾月 之建
(境内案内板より)
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拝殿
拝殿内部には直虎の花押が記された徳政令の受け入れを記した書のコピーが額に入れられ展示されています。「これこれ」と大喜びで写真撮影をしてきました。
本殿
また、拝殿横には境内社が鎮座しています。
裏の山は八幡山で古墳があり、現在はみかんが植えられています。ハイキングの気分で八幡山に数分登ると、そこには『天王宮』が鎮座しています。
天王宮
『社殿』左脇には『八幡大菩薩』が鎮座しています。
八幡大菩薩
最後に
今回ご参拝した『蜂前神社』は、およそ1700年前の西暦280年に建てられたと伝わる三方原から祝田(ほうだ)の坂を下ったところに鎮座する古社でした。
この場所は『三方原の戦い』で武田軍が徳川軍を待ち伏せしたといわれる場所の一つですから、家康ファンの私にとってはまだまだ若かった頃の家康の最大の負け戦が決まった場所かもしれないということで、死ぬまでには絶対にお参りしたい神社だったのでゆっくりと時間をかけて回らせていただきました。
家康もこの『蜂前神社』には必勝祈願に訪れたと聞きますし、『どうする家康』の少し前にこの遠江を舞台にした大河ドラマ『おんな城主直虎』放送時にもかなりの人気だったため週末などはすごくにぎわっていたそうです。
少し遅れてしまいましたが、直虎は女ではないなんて説もありますが、とりあえず直虎の花押のある「井伊直虎関口氏経連署状」のコピーを見ることで、やはりおんな城主だったからこそのロマンがあるなあと感じた次第です。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。