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Channel: sannigoのアラ還日記
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平安時代から鎮座していたと伝わる古社『於呂神社』と於呂神社遺跡

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こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回は浜名区於呂に鎮座する、ゆったりと広い静寂な空間を味わうことができる『於呂神社』をお参りしてきました。

 

『於呂神社』の創建は明らかではありませんが、平安時代から鎮座していたと伝わる古社です。長谷神社、若倭神社、尾野高根神社とともに麁玉郡4座の中の一社と「遠州風土記」にも記載がされているそうです。

 

境内の南方には、刀剣ほかが出土した径23.8m、高さ3.9mの大型円墳の『於呂神社古墳』があります。

 

平安時代から鎮座していたと伝わる古社『於呂神社』と於呂神社遺跡

 

 

於呂神社

 

 

鎮座地:静岡県浜松市浜名区於呂3526

 

《アクセス》


電車・バス:遠鉄電車[岩水寺駅]から徒歩約12分 

      遠鉄電車[西鹿島駅]から徒歩約16分

      天浜線[岩水寺駅]から徒歩約18分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]より約7分

駐車場:『西来院』前に参拝者用の無料駐車場があります

御朱印:元旦や祭事の日にはいただけるようです。

 

於呂神社とは?

 

「遠州山辺の道の会」の案内板によると、於呂神社の創建は明確ではありませんが、延喜式の遠江62座の内麁玉郡4座の中の一社といわれています。

 

『於呂神社』は浜松市浜名区の北部、少し先の西鹿島駅で交わる天竜浜名湖鉄道と遠鉄西鹿島線が両脇を走る鎮守の森の中に静かにたたずんでいます。

 

江戸時代には徳川家光公の時代から社領を寄進され、明治6年には郷社に列せられています。 明治40年1月には「神饌幣帛料供進神社」に指定されました。

 

明治中頃まで、於呂村、根堅村、尾野村、上島村、中瀬村、豊保村、蟹澤村(本沢合)が氏子だったそうです。昔は於呂明神・走湯権現も同じ社殿に同格に祀られました。

 

御祭神

 

天津日高日子穂穂手見命(あまつひほほでみおみこと) 別名天津火火出見尊(あまつほほでみのみこと)

 

天津日高日子穂穂手見命とは?

 

天照皇大神の孫である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、別名山幸彦が父、木花開耶姫(このはなさくやひめ)が母、つまり、日本初代の天皇である神武天皇の祖父。豊玉毘売を妻とし、その間に生まれた子が、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひたかひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)である。高千穂の宮に居ること五百八十年、御陵は高千穂の山の西にある、とされる。(  國學院大學 古典文化学事業 – 「古事記学」の推進拠点形成 より)

お参りしていきましょう

 

西来院の向かいに駐車場があります。御馬ヶ池連の屋台置き場のようです。

 

駐車場に車を停めて、参道を進めると『手水舎』です。手と口を清めます。背の高い木々が日陰を作り、夏の終わりのツクツクボウシがこれでもかとがんばる境内はとても広く感じます。

 

手水舎と御神木

 

手水舎の右手先には社殿が見えてきます

 

境内内説明板と背の高い『御神木』

 

延喜式内郷社於呂神社

御祭神は天津日高日子穗穗手見命(あまつひほほでみのみこと)
別名 天津火火出見尊です 

天照皇大神(あまてらす おおみかみ)の御孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が
御父、  木花開耶姫(このはなさくやひめ)が御母

九州高千穂峯に崩ぜられ御陵(ごりょう)は今
日向国(ひうがのくに)菅ノ口日高山に上陵(じょうりょう)せられ 
国幣大社  鹿島神宮です

徳川幕府は遠江国鎮守(ちんしゅ)として御免
勧を許可され勅願(ちょくがん)に依り勅使(ちょくし)を
伺候(しこう)御祭を奉じ我が国数少い神社です

注 延喜とは一千三百年以前の 氏神の事を云う

(境内案内板より)

 

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拝殿でお参りしていきます。やはり古社らしい伝統を感じます。

 

拝殿と社務所

 

立派な『社殿』と社務所かな?と思います

 

『本殿』は朱い屋根で神明つくり、お参りはできませんでした

 

社殿の屋根の上にも狛犬?(ピントが!)

 

狛犬

 

阿吽の狛犬

 

お隣には、社殿と並んで境内社が鎮座しています。こちらもお参りしていきましょう。

 

於呂神社末社『境内八幡神社』

 

小さな手水鉢が置かれた

 

 

本来なら、境内北側の明治44年9月に建立された『鳥居』から、まっすぐに伸びる参道をすすめお参りするのが良いようです。今回は駐車場に車を停めさせていただいたので逆に進んだ形です。

 

鳥居と参道

 

北側の『鳥居』は明治44年9月の建立

 

まっすぐ伸びる参道はまっすぐな杉の高木の挟まれ気持ち良いです

 

「公示」と書かれた案内板が北の鳥居付近にありました

 

公示

一、鎮座 浜松市浜北区於呂三五二六番地

二、祭神 天津日高日子穂穂出見命(神武天皇の祖父)

三、社名 於呂神社

四、神社庁等級 六等級(旧社格・郷社)

五、例祭日 八月二十八日(直前の日曜日)

六、由緒
当神社は、延喜式内遠江の国六十二座の麁玉郡四座の中の一社、古来郡社と讃え、領主地頭の尊崇篤く、数町歩の神田を寄せられ、徳川時代は、御免動化で、営繕及び再建費等を郡中に勧請することを許された。 
徳川家光の時代より、朱印高十石七斗の社領を寄進され、明治に至った。

明治六年三月郷社に列せられ、明治四十年一月 神饌幣帛料供進神社に指定される。

於呂村、根堅村、尾野村、上島村、中瀬村、豊保村、蟹澤村(本沢合)が明治中頃まで氏子であった。 (明治百年記念史))※現氏子 於呂地区のみ

昭和二十八年六月十六日宗教法人{於呂神社}となり現在に至る。

  令和二年四月編集作成・参考資料{於呂神社記}

(境内案内板より)

 

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於呂神社古墳

 

於呂神社の南側には古墳時代後期(6世紀前半)築造の『於呂神社古墳』があるようです。帰宅してから知ったため残念ながら今回は見れていません。勾玉が出土しているなんてロマンでしかありません。

 

近くの岩水寺近くの根堅遺跡で発掘された、約1万4000年前のものであるとの測定結果が出されている20代女性とされる人骨は、旧石器時代の化石人骨である事が確認されていますし、別の人骨も1万8000年前のものであると判定されているとのことですから、浜北人のルーツはかなり古く、勾玉が出土するほど深い歴史があると認識を新たにしました。

参照元:浜北人 - Wikipedia

 

御馬ヶ池古墳群(おんまがいけ)の1基で、正式名称は御馬ヶ池2号墳。直径23.8m、高さ3.9mの円墳で、墳丘裾部で幅2mの石列が確認されている。主体部は未発見であるが、木棺直葬と考えられている。直刀、勾玉、丸玉、小玉、須恵器杯身が出土した。古墳時代後期(6世紀前半)の築造。墳丘上部は墓地として利用されている。1号墳、6号墳も現存するとされるが、いずれも確認できない。同古墳群の他の古墳も現存しない。

引用元:於呂神社内古墳 - 古墳マップ

 

 

御馬が池跡

 

 

場所:浜松市浜名区3764-22

 

現在の緑豊かな『御馬が池』

 

名前の由来は家康が武田軍との戦いの際に、ここで馬を洗って休ませたと言い伝えられているからだそうです。また、於呂神社の神馬を付近で飼っていたのが由来ともされ、現在はこの辺りの穴場的な池のスポットのようです。

 

現在は浄水場、グランド、緑地公園になっているようです。この日は池のほとりのグランドでは野球少年たちが額に汗して練習に励んでいました。

 

また、真横を天浜線が通り、斜め下からの写真が撮れるということで人気とのことです。が、今回グランドの近くを車でぐるぐると何度も回ったのですが、どうしても公園になっているという緑地にたどり着くことができませんでした。

 

次回改めて徒歩でチャレンジするつもりではいますが、酔芙蓉などがきれいに咲いている里という感じの街並み、素敵ですが道が狭いので車ではどうしてもたどり着けない場所があります。基本に戻って、やっぱりどこまでも歩かなくちゃいけませんね。

 

最後に

 

今回は創建は明らかではありませんが、平安時代から鎮座していたと伝わる古社『於呂神社』をお参りしてきました。

 

高木に囲まれた広すぎる境内に鎮座する社殿は、境内が広すぎるおかげで少しこじんまりと感じましたが、神様のいらっしゃる所という雰囲気がたっぷりと味わえる時間になりました。また、寝殿造りの朱色の『本殿』は、さすがに歴史ある古社という貫禄があります。

 

過去には浜松市、浜北市と別れていた時代もあった旧浜北市。現在浜松市になっていますが、浜北原人(浜北人)の人骨が出土した根堅遺跡などがあり、この地には旧石器時代から営みを続けてきた人々の歴史があることを実感できた『於呂神社』や『御馬が池跡』を回ってみた感想です。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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