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掛川城から東へ歩いて10分の『掛川古城・龍華院大猷院霊屋』を訪ねて

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こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

先日、掛川城に出かけた際、天守閣最上階に上がってガイドさんに教えてもらった『掛川古城』は、戦国時代に掛川城の前身になったお城です。

 

また、この掛川古城址は知る人ぞ知る場所で、三代将軍徳川家光の霊廟『龍華院大猷院霊屋』があり小さいながらも権現造となっています。

 

掛川城から歩いて約10分の場所にある『掛川古城址』は、春は桜、秋には紅葉と隠れた人気スポットのようです。掛川城にお出かけの際はぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょう。

 

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掛川城から東へ歩いて10分の『掛川古城・龍華院大猷院霊屋』を訪ねて

 

 

『掛川古城・龍華院大猷院霊屋』

 

 

 

場所:静岡県掛川市掛川1104

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[掛川駅]から徒歩で約15分・掛川城より徒歩約10分

車:東名[掛川IC]より約8分

駐車場:掛川古城の南側の細い坂を登るとその先に無料駐車場があります。ただ、駐車場への道は細い上り坂、交差ができない!(私だけ?)ですので、車は掛川城公園の有料駐車場に止めて、掛川城を散策したあとに掛川古城まで歩くことをおすすめします。

御城印:いただけませんでしたが、以前は『遠州掛川 鎧や』さんで購入できたようです。

 

今回は掛川城の『大手門駐車場』に車を置いて、まずは掛川城を散策、掛川城を出てそのまま東側の蓮池を左に曲がり、しばらくまっすぐ進み右折後『龍華院』の[看板」を見つけ坂道を登って『掛川古城』を目指しました。

 

 

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池を眺めながら東方向へ、龍華院の看板が見えます

 

坂道を登ると、まず左手に『龍華院』が見えてきて、その左側のスペースが10台程度車を止められる無料の駐車場を確認できました。

 

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坂の左側に『龍華院』と駐車場があります

 

いよいよ、掛川古城の『龍華院大猷院霊屋』が見えてきます。龍華院からここの大猷院霊屋が建っているところが、掛川古城の『本曲輪』だそうです。

 

掛川古城

 

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掛川古城『本曲輪』は現在の『龍華院大猷院霊屋』の位置にあったといいます

 

掛川城と子角山

掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰凞(あさひな やすひろ)により1500年ごろ子角山(ねずみやま)の地に築城されました(掛川古城)。

その後、1513年には龍頭山(りゅうとうざん/現在の掛川城公園))に新たに築城されたため、 子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)の位置に あったとされ、霊屋東側に残る大堀切 (空堀)の跡に往時の面影が残っています。

戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山(ねずみやま)に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。  

子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園として、両側の尾根を一体的に整備しています。

(案内板より)

 

掛川城より東に500mほどの子角山(ねずみやま/別名天王山)にあった掛川古城は、掛川城の前身になります。

 

戦国時代の文明年間(1469年から1486年)頃、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたといわれています。朝比奈氏は泰凞・泰能・泰朝と3代つづき、朝比奈泰能の代に掛川城を築きそちらに移ったとされます。

 

遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古場城では手狭となり、16世紀初頭に現在の地に掛川城が築かれました。そして、1568年(永禄11年)徳川家康が、今川氏真のこもる掛川城を攻めた際には本陣として使用されたという説があります。

 

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本曲輪・本丸跡

 

掛川古城『本曲輪』は高い箇所と低い箇所の2段があり、現在の『龍華院大猷院霊屋』の位置が本曲輪の高い箇所とされます。現在も『龍華院大猷院霊屋』の横には『天王山龍華院』があります。ここが本丸跡で東側に土塁が残ります。

 

『龍華院大猷院霊屋』の東側に二の丸があり、二の丸との間に大堀切(空堀)の跡が残っており、南麓にある掛川市立第一小学校が居館跡とされます。

 

龍華院子角山公園に向い、階段を下ると遊歩道の右側に掛川第一小学校のグランドがあり、この日も元気よく野球の練習が行われていました。ここ居館跡とされます。左側には『大堀切』が見えます。

 

大堀切(空堀)

 

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『大堀切』は現在は進入禁止になっています

 

横から眺めるだけでも、大きな空堀だったことがわかります。堀切の西斜面には4つの大きな穴が開いているそうです。地図にも載っていたので見たかったのですが、『馬』が置かれ進入禁止となっていました。確かに危険ですもんね。

 

この4つの大きな穴は第二次世界大戦の際に防空壕として掘られたらしいです。4つのどの穴もつながっていて120mも掘られたのだとか。掛川は空襲に遭わなかったということですから、不要のまま残っていてよかったです。

 

遊歩道の坂を登っていくと、左側には大きな広い公園があります。ここが『子角山公園』です。

 

子角山(ねずみやま)公園

 

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芝生が気持ちよい公園で、遊具もありお子様も喜びそうです



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子角山公園からの展望

 

子角山公園からの展望は、御側には小笠山、天気が良ければ富士山、湖西連峰に続く掛川北側の山並みが一望できて、なかなかのおでかけスポットです。トイレもあって、遊具もあるのでお子様連れでも景色を眺めながらのんびりできそうです。

 

龍華院大猷院殿霊廟(りゅうげいんだいゆういんでんれいびょう)

 

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三代将軍徳川家光の霊廟『龍華院大猷院霊屋』の辺りが『掛川古城』の本曲輪があった



江戸時代に入り、1656年(明暦2年)に、当時の掛川城主だった北条氏重が、嫡子がなかったこともありお家存続を計って、掛川古城本丸跡に3代将軍・徳川家光の位牌を祀る「龍華院大猷院霊屋」を建立しています。死後はお家断絶・領地没収となってしまっいました。

 

1818年(文化15年)に焼失し、1882年(文政5年)に再建された建物なため、まだ朱の色などが新しく感じられます。

 

1954年(昭和29年)1月30日、春日厨子を含め静岡県指定有形文化財に指定されています。秋には秘かな紅葉スポットとして、春には桜でも知られます。

 

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中村葛嶺翁の碑

 

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中村葛嶺翁 顕彰会による石碑「石に咲く・・・?」と、案内板

 

中村葛嶺翁碑

葛嶺は安永六年(一七七七) 葛川に生まれ、源治、源太夫と名付けられ俳号を桂花園葛嶺と号し天保十一年(一八四○)に没す。享年六十四歳であった。

葛嶺は幼くして勉学の志し篤く、近隣の人々が教えを乞う。十七歳にして漢学・詩・易学・ 関流の和算を習得し多くの塾生を育て報徳社を創立した岡田佐平次も弟子となる。

享和二年(一八〇二)掛川藩主太田資愛に招かれた松崎慊堂が藩学の教授になると中村葛嶺は筆頭弟子となった。文化八年(一八一一)朝鮮の公使が来日すると松崎慊堂に随行し識見を深めた。

掛川の発展の基礎は太田候の執政と犬塚蘭園、松崎慊堂、海野予介、中村葛嶺等が携わって文化を推進した。又、葛嶺は後年子弟の教育に力を入れ掛川及び西山口発展になくてはな らないものであった。

中村葛嶺翁 顕彰会

(案内板より)

 

「西郷局」生誕470年を記念した『御休息処石碑』

 

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西郷の局の『御休息処石碑』と、西郷の局「お愛さま」年表

 

徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母、三代将軍家光公の祖母にあたる「西郷局(お愛の方)」(1552~1589年)の『生誕470年』を記念し、生まれた日とされる一昨年の桃の節句の3日、故郷の掛川市の第一小学校北の龍華院境内(掛川古城跡)に石碑が建立されたことを新聞記事で見かけました。

 

また、NHKの『ブラタモリ』でタモリさんと広瀬アリスさんが、この辺りを訪ねていたのを見て「絶対に私も行く」と決心をしたのは昨年のこと。時のたつのは早いものです。

 

御霊廟の西側にあるこの石碑は、眼前には孫の家光公、その先に夫・家康公を祀る久能山東照宮、さらに向こうには日光東照宮を静かに見守っているようです。

 

三河西郷氏の一族である「西郷局」の生誕地は、天王山龍華院よりも北に位置する神西郷地区だそうです。が、石碑の設置場所は、孫で三代将軍家光を祀る龍華院大猷院霊屋(たいゆういんおたまや)(県有形文化財)のすぐ西隣です。

 

こちらの石碑は米穀店経営石野さんご夫妻の私財で建てたもので、「祖母が孫を見る温かい思いは今も昔も同じ」と西郷局の「御休息処」と位置づけ建立されたとか。

 

「西郷局」は、徳川家康に見初められ、徳川秀忠と松平忠吉の生母となるお方で、美人で性格も良かったため、家康公だけでなく家臣や侍女たちからも愛されていたといわれています。

 

1983年放送の大河ドラマ『徳川家康』では竹下景子さんが演じ、2023年放送の大河ドラマ『どうする家康』では静岡県出身の広瀬アリスさんが演じました。静岡県民の私は思い切り楽しませてもらいました。

 

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二代将軍秀忠の生母「西郷局(お愛の方)」

 

西郷局の通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られています。院号は宝台院。

 

1578年(天正6年)3月、浜松城の徳川家康公から、その美貌、聡明さで気に入られ側室となりました。

 

家康公に仕えて1年後の天正7年(1579年)4月、秀忠を生み、翌年には忠吉を生みました。家康公が浜松城から駿府城に移って間もなく、天正17年(1589年)5月38年という短い生涯の幕を閉じます。

 

死因は、一説では徳川家康の正室であった築山殿(瀬名姫)の侍女による毒殺又は暗殺とも伝わりますが、定かではありません。

 

築山殿(瀬名姫)自身は、天正7年(1579年)に、織田信長から謀反の疑いをかけられ苦渋の決断をせざるを得なかった家康の命で、家康の家臣に斬られ既に亡くなっていますから、何とも言えません。

 

亡骸は駿府(現在の静岡市)の竜泉寺(後の宝台院)に葬られ、西郷局の来世を祈ったと言われています。というのも、西郷局は強度の近視であったようで、特に盲目の女性に恩情をかけ、衣服飲食を恵んでいたといわれ多くの方から慕われていたからです。

 

江戸幕府が開かれ、子の秀忠が将軍となって世を治めるようになると、西郷局の家系である西郷氏は優遇されます。しかし、秀忠が長命でなかったことから長く続きませんでした。

 

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三河西郷氏

 

三河西郷氏は、現在の豊橋市西郷校区あたりに本拠を置いていたそうです。西郷局の粗祖父西郷正勝のころには、三河国内で今川義元の傘下として命脈を保っている程度にしか過ぎませんでした。

 

西郷局の母は、今川氏の命によるものでしょうか、遠江国の住人・戸塚忠春に嫁しています。ここで生まれたであろう西郷局も成長し最初の夫に嫁したのですが、残念ながら先立たれて寡婦となってしまいます。

 

そこで、同じように正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれ、義勝との間に1男1女をもうけています。※一説には義勝が最初の夫であるともいわれています。

 

元亀2年(1571年)、武田氏家臣の秋山虎繁の南進を阻むための竹広合戦で、夫の義勝が命を落とします。またしても未亡人となってしまった西郷局、産んだ男子は幼過ぎて家督が継げません。

 

やがて、叔父の西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだのです。天正17年(1589年)に38歳で死去し、死後の寛永5年(1628年)になって、当時の将軍家光から正一位が贈られています。

 

秀忠が将軍であった時代には、秀忠の異父兄に当たる西郷義勝との間に生まれた男子は徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は優遇されていました。が、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かったとされます。

 

叔父・清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高で、以降徳川綱吉の頃になると勘気を被って大名の座から転落、5,000石の旗本となっています。徳川家宣の頃に5,000石を復権し1万石に回復しますが、その5,000石も簡単に失ってしまいすぐに元の5,000石に戻ったといわれています。

 

参照元:西郷局 - Wikipedia

 

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最後に

 

今回は掛川城の大手門駐車場に車を置いて、まずは掛川城を散策、そのまま東側の蓮池を眺めながら、『掛川古城』を目指しました。掛川城から約10分歩けばすぐに

到着です。

 

以前から、掛川城の近くに3代将軍家光公の御廟があると何かで知り、一度は訪れたいと思っていた場所です。だって、どうして掛川に3代将軍家光の御廟があるのか不思議だったから。

 

しかも、昨年の大河ドラマですっかり『徳和家康』びいきになった私。掛川城の前身の『掛川古城』の存在を、しだれ梅をながめに『龍尾神社』の境内北側の花庭園に出かけた際に知ることができ、生涯学習センター付近を捜せばあるかな?なんて思っていたのですが、こんなにも掛川城の近くだったなら、正直もっと早く訪ねたかったです。

 

3代将軍家光といえば、特に家康をすごく慕っていた方ですし、あの日光東照宮を豪華絢爛にされた方ですもの。どこかで「ありがとう」を伝えたかったのです。本当、ありがとう!

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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