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Channel: sannigoのアラ還日記
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遠州織物産業の基礎を築いた土地に鎮座する『貴布禰神社』

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こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江にある古の神社は浜松市浜名区貴布祢に鎮座する『貴布禰(きぶね)神社』です。ここ貴布祢という土地は、江戸時代後期から綿作地となって遠州織物産業の基礎を築いた土地だそうです。

 

『貴布禰神社』は、遠州鉄道浜北駅の北方向にある大きな浜松市浜北文化センター(現在臨時休業中)のすぐ西側に鎮座しています。

 

貴布祢という地名はもともとは「木船」から由来しており、この地は天竜川の支流が何本も流れる中州のような地形だったといいます。しかも、こちらの御祭神は本来は水や雨を司る神である「高龗大神」に由来する神なのですが、神社の名前に「船」ではなく「布」の字を使われているのは、ここが遠州織物の基礎を築いた土地という証を残そうとしたから生まれた地名とのことです。

 

また、こちらの『貴布禰神社』にもいつもこのブログに登場する、平安時代の征夷大将軍で蝦夷征伐を成し遂げた坂上田村麻呂の伝承が残されています。お楽しみに♪

 

遠州織物産業の基礎を築いた土地に鎮座する『貴布禰神社』

 

 

貴布禰神社(きぶねじんじゃ)

 

 

 

鎮座地:浜松市浜名区貴布祢290

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[浜北駅]から徒歩5分
      遠鉄電車[美薗中央公園駅]から徒歩約12分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から飛龍街道(R152)経由で約12分

駐車場:文化センター交差点の文化センター側すぐに境内入口に5台分くらいの駐車場があります。私は浜北文化センターの駐車場を利用しました

御朱印:いただけるようです。ネットの情報によると年に1度午前の2時間のみいただけるということで、いただけていません。

 

貴布禰神社とは?

 

幕末の頃には、貴布祢地区には木舟村には『木村神社』、木舟新田村には『御室神社』が祀られており、そのほかにも多くのお宮が祀られていたそうです。

 

明治維新以後、神仏分離令で明治8年木舟村と木船新田村が合併して貴布祢村となり、明治9年5月1日に二神社とさらに村内の小社70数社が合祀され現在の貴布禰神社となりました。現在も住む人々の心の依り所として深い信仰を集め、現在神社は『貴布禰神社』、地名は貴布祢と表します。

 

由緒書によると、この地に勧請された時期は不明ですが、”726年(神亀3年)鹿玉川(天竜川)の大洪水で社殿社領をことごとく流出した”とありますので、創建もかなり古い古社であることがうかがえます。しかも”摂社末社75座、社領36石5斗8升目”の記載からかなり大きな神社であったことでしょう。

 

後の大正14年に貴布禰神社はこの地に遷移されたと由緒書きから知りました。

 

貴布禰神社の御祭神

 

高龗大神(たかおかみのかみ)

『日本書紀』の一書において伊邪那岐神が火之迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされる三柱(闇御津羽神、闇龗神、高龗神)の一柱。神名の「龗(おかみ)」は龍の古語であり、美しい女性が化身して人間の前に現れる龍神(蛇神)か、その神に仕える巫女の神格化とされ、水の神や雨ごいの神として信仰されています。

 

御室神社の御祭神

大物主神(おおものぬしのかみ/土地の神様)

 

配祀神

大日靈貴命(おおひるまなむちのみこと/天照大神の別名)

素戔嗚命 (すさのおのみこと/疫病除けの神様)

建御名方命(たけみなかたのみこと/武勇発展の神様)

大山祗命 (おおやまずみのみこと/山林事業の神様)

伊能富命 (いざわとみのみこと/農業の神様)

白山姫命 (しらやまひめのみこと/国生みの神様)

宇加之御霊命(うかのみたまのみこと/穀物の神様)

その他合併末社七十数社

 

貴布禰神社の由緒

 

貴布禰神社の由緒書き

 

  貴布禰神社由緒

 

御祭神

貴布禰神社 高龍靇神(水の神禄)
  本社  貴船神社 京都市左京区鞍馬町貴船町

御室神社  大物主神(土地の神様)
  本社  大神神社 奈良県桜井市三輪町

配祀神 

 大日靈貴命(天照大神の別名)
 素戔嗚命 (疫病除けの神様)
 建御名方命(武勇発展の神様)
 大山祗命 (山林事業の神様)
 伊能富命 (農業の神様)
 白山姫命 (国生みの神様)
 宇加之御霊命(穀物の神様)
 その他合併末社七十数社

由緒
 貴布禰神社の勧請年間は不詳であるが、当貴布禰の地はその昔伎部郷と称し、貴船大神を氏神とするようになってからは木舟村と改称し後貴布禰と改ためた。
 摂社末社75座、社領36石5斗8升目あったが、神亀3年鹿玉川(天竜川)の大洪水にかかり社殿社領を悉く流出したと伝えられる。
 人皇50代桓武天皇の御代、延暦14乙亥年、田村麻呂坂上公は東夷罪の勅命を受け関東下向の砌り、天竜川の荒廃を治めた公の夫人は、貴真蛇太郎が藤原保之の娘で、田村俊光を生むや間もなく逝去された。これを貴真蛇の島に葬る。貴真蛇の島とは社領の西北辺で、後に木新田と改称した。
 俊光将軍は後に、その母を貴布禰神社に合祀したと伝えられる。その後貞享3年に当社は再建されたと記されている。
 幕末の頃には木舟村に貴布禰神社、木舟新田村は御室大明神で、それぞれの産土神として、敬崇されていたが、人たちは小さな中間を作り、いろいろな願いを込めて、お宮やその他にも村の為に費やし、祠を建て信仰していた、その数およそ七十数座に及ぶと言われている。
 明治維新以後小村合併により木舟村と木舟新田村が合併し貴布禰村となり、村内神社や祠の七十数座を合祀し貴布禰となる。
 大正14年に現在地に遷座し、この地に住む人達の産土神として深い信仰を集めている。

祭義  毎年8月28日
旧社格 村社
旧社領 36石5斗8升目
社殿創建 年代不詳 
社殿再建 貞享3年8月23日
社殿遷座 大正14年8月27日
平成16年6月吉日
   貴布禰神社総代会
   貴布禰自治連合会

(境内由緒書きより)

 

坂上田村麻呂の伝承

 

こちらの由緒書きには、『岩水寺』や『有玉神社』『白華寺』『椎が脇神社』などに残る天竜川龍神伝説に登場する坂上田村麻呂と美しい玉袖(30mもある大蛇)との間に生まれた一子赤蛇丸(後の俊光将軍)の事が書かれています。

 

詳しくは岩水寺の公式ページの 岩水寺 安産祈願・お宮参り・子宝・家内安全・開運厄除子安地蔵尊 をご覧ください。  

 

坂上田村麻呂とは平安時代に活躍した征夷大将軍で、勅命により京都から蝦夷征伐に向かう途中遠江も経由しているためか天竜川の洪水が大蛇から授かる玉で治まるという天竜川龍神伝説が残されています。

 

この伝説では平安京を造都した天皇「桓武天皇」の時代、延暦4年(西暦785年)乙亥(きのと い)亥年 (いどし)、坂上田村麻呂が再び東蝦夷征伐勅命を受け関東に向う途中、荒れる天竜川を治めたのが夫人で、その子俊光を産んで夫人はすぐに亡くなったそうです。

 

夫人の亡骸は貴真蛇(きしんじゃ)の島に葬られました。貴真蛇の島とは貴布禰神社社領の西北辺で、後に木新田と改称したとのこと。

 

成長した俊光将軍がこの母を貴布禰神社に合祀したと伝えられています。後の1,686年(貞享3年)8月23日に社殿は再建されています。

 

お参りしていきましょう

 

鳥居

 

石造りの貴布禰神社の『鳥居』

 

鳥居の『扁額』と由緒書き

 

クスノキ

 

御神木の『クスノキ』

 

参道右手に、神聖な区域とその外とを区分するための標(しめ)である『注連縄』が張られた御神木の『クスノキ』が見えます。市街地という場所ですがかなり見上げる高木で、400年近い歴史があることを実感しました。

 

保存樹木標識[昭和61年3月1日指定、樹木第60号]目通り幹囲5.3m、樹高17mというなかなか見ることのない大きなクスノキで、樹齢は350年~400年とのことです。

 

狛犬

 

貴布禰神社の狛犬

 

けっこういかつい感じの狛犬です。こちらにもしっかりと注連縄が張られていました。

 

拝殿

 

貴布禰神社の『拝殿』と『扁額』

 

本殿

 

玉垣に囲まれた『本殿』

 

本殿は玉垣に囲まれお参りはできませんが、水の神や雨ごいの神とされている高龍靇神が祀られているということで、「いつも恵みの雨をありがとうございます。でも、あまり雨を降らし過ぎないでください」とお願いしました。

 

参照元:貴布禰神社の御朱印・アクセス情報(静岡県浜北駅)|ホトカミ

 

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最後に

 

今回お詣りした遠江の神社は、江戸時代後期から綿作地となって遠州織物産業の基礎を築いた土地貴布祢に鎮座する『貴布禰神社』です。

 

御祭神は「高龗大神」で水の神や雨ごいの神とされています。最近の異常気象による水害はあまりに雨量が多くひどすぎると感じている私はもっと何度もお詣りにでかけた方が良いかもしれません。

 

何よりこちらの『貴布禰神社』で興味深かったのが、ここまで何度も登場した坂上田村麻呂の一子である俊光将軍、美しい母(実は30mもある大蛇)のことを思い、こちらの貴布禰神社に合祀したと伝えられていることです。

 

坂上田村麻呂にとって遠江は、ただただ勅命を受けたから蝦夷征伐のため京都から東北地方で向かうため何度か通った土地だと思うのですが、ここまで伝説だけですまされないような現実、例えば白華寺や有玉神社、田村将軍神社やこの貴布禰神社が残されていると、何かしらもっと大きな要因があるのでは?と探りたくなってしまいます。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。

 


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